株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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昨日は斉藤にあんなことを言ったが、本質的にはオレも同じようなものだ。
仕事をする気になれないのも同じ、株価が常に気になるのも同じだ。
ギリシャの総選挙以降、円高方向に動いているのはオレも知っている。
それによる日本株の下落相場が来ていることも知っている。
毎日携帯の画面で見ているのだから、知らないわけがない。
しかしここ最近、リアルでの問題が立て続けに起きていたから、いまいち株について真剣になれていないオレがいる。
ちょっと前のオレなら少し損をするたびに大声を上げていたものだが、今のオレは落ち着いたものだ。
多少の損は戻すだろうと、たかをくくっている、というのが日常だった。
しかし今日は、とてもそんな程度で割り切れるような損ではなかった。
このところ負けが込んでいたのと、昨日のショックがあったからだろう。
長い間禁忌としていたある種の銘柄に、ついに参入してしまったのだ。
怖い怖いと言いながらも日々の動きだけは見続けていたある種の銘柄。
もしここに投じていたのならこれくらいの儲けが出ていたのか、と皮算用しながら静観し続けたある種の銘柄。
突如として起こる暴騰、暴落。
誰も見向きしなかった状態からマグマのように吹き上がる壮絶な出来高。
ああ、これを買っていれば、と何度も夢見たランキング上位の仕手株たち。
あろうことかオレはそのうちの一つにかなりの規模の買いを仕掛けてしまっていたのだ。
信用取引がこれほど恐ろしいと思ったことはない。
ボタン一つでスイっと買ってしまえる環境がこれほど恐ろしいと思ったことはない。
斉藤のことを他人事とは思えなかった。
オレは初めて見る追証発生の画面に戸惑いを隠せなかった。
仕事中、配達するのも忘れて食い入るように画面を見ていた。
このまま進むと強制決済される、でも資金を追加すればとりあえず当面は凌げる。
そういう状態だった。
オレはトラックの中で独り震えていた。
とりあえず追証さえ何とかできれば助かる可能性はある。
損したところで全てを手仕舞いするのは大損する第一歩だ。
これは今までの経験からも明らかなこと。
何とか決済されずに済む方法を考えるべきだ。
営業所に戻り、屋上に向かう。
追証は、発生した日に金を入れなければならない、というわけではない。
携帯にも表示されている通り3営業日以内、と猶予が与えられている。
そのあいだに何とかできれば、なかったことにできる。
しかし投資用の資金はすでに全額を証券口座に入れている。
技術が身に付くまでは、と一部の資金を定期預金にしていたのは過去のことだ。
月末まで凌げば給料が入るが、株価がこの勢いで推移するとなると、そんなものを待っている余裕はない。
どうすればいいというのか。
オレは斉藤の部屋にあった消費者金融の請求書を思い出した。
それと同時に頭を振って思い描いた空想を打ち消す。
ダメだダメだ。
オレは斉藤と違って株はギャンブルだと割り切っている。
ギャンブルに負けたから借金して挽回を図ろうなんて大バカもいいとこ。
人生で絶対にやるべきではないことの一つだ。
しかしそうなると、強制決済か。
いや、それもダメだ。
仮に損するにしてもどれくらい損をするのかで後々の展開が変わってくる。
浅めの傷で済むのならそれでよし。
最悪なのは、一番悪いところで強制決済されてしまうことなんだ。
こうなれば仕方がない。
オレは株をやる前に決めた自分の取り決め、つまり「投資資産と生活資金は完全に区別すること」という制約に手をつけることを考えた。
オレは貯蓄のほとんどを投資資産として利用しているが、生活資金として用意している銀行口座にはいくらかの余力が残されている。
つまり給料日が来るまでの生活費をちょっと拝借して緊急回避、という作戦が取れるというわけだ。
今日の段階なら数万も入れれば凌げる。
そして凌げれば損を戻していくであろうときが訪れる。
そしてそのときが来れば、追証を回避するために差し入れた金を元の銀行口座へと戻せる。
なかなか良い作戦だ。
これなら誰に金を借りることなく急場を凌げる。
早い話が、自分から金を借りて、自分に返済するわけだ。
自分さえよければどこにも迷惑はかからない。
斉藤のような転落はありえない。
これでいい、これでいこう。
「九電君! 九電君って!」
株のことを考えながらぼんやり煙草を吸っていたオレは、美砂がオレの肩を揺すってくるまで隣に美砂がいたことに気がつかなかった。
我ながら考え事に熱中しているときというのは恐ろしい。
これがもしトラックを運転している最中だったりしたら、いつ何時交通事故に遭ってもおかしくないといったところだ。
「さっきから呼んでるのになんで無視してんの。いい加減にしないと怒るよ」
「別に無視してたわけじゃねぇよ。気がつかなかっただけ」
「嘘つけ。どうせまたろくでもないことを、とか何とか思ってたんでしょ。最近の九電君って、私が話しかけるといっつも嫌そうな顔するし」
そりゃまぁ配達員とコールセンターの関係だからな。
仕事に関する話でオレが喜べた試しなんて今までに一度もないし、美砂のほうから声をかけてくることなんて十中八九仕事に関する話なんだから、だんだん気が沈んでくるのも当然だろう。
「斉藤君のことだけどさ」
仕事に関する話、ではなかったか。
微妙に関係する話ではあるけれども。
「今朝、電話があったんだって。コールセンターにじゃなくて、管理者に直接。それで七月いっぱいで退職するから雇用期間の延長はしないでくださいって」
「そうかよ。それがどうかしたのか」
「どうかしたって。斉藤君、辞めるって言ってるんだよ? 何とも思わないの?」
「思うよ。次のアルバイトが来るまで大変だな」
「違うって! そうじゃないって! 引きとめようとか説得しようとか、そういうのはないの?」
「もうやったよ。でもダメだった。やる気がないんだってよ。どうしようもない」
「九電君!」
美砂が怒鳴る。
屋上の喫煙所には他の配達員もいるというのに、よくもまぁそんな大声を出せるもんだ。
斉藤の件については、オレは何も関係ないのに、美砂はオレを責めるような口調で話している。
斉藤が辞めるのはオレのせいとでも言いたげな様子だった。
「なんでそんなに冷めてるの。斉藤君が辞めても困らないって言うの?」
「困るって言ってるだろ。穴が空いた分、誰が配達行くと思ってるんだ」
「だから違うよ! 九電君と斉藤君、あんなに仲良かったじゃない。毎日毎日ここで煙草吸っててさ。仕事終わったらときどき飲みに行っててさ。九電君にとって斉藤君は、ただのアルバイトの配達員じゃなかったでしょ? 代わりが来るとか来ないとか、そういうんじゃないよ」
「うっとうしいな、本当にお前は」
「えっ」
「どっかのドラマで聞いたような台詞を次から次へと。アルバイトが辞めていくのは普通のことだろうが。斉藤以外にもいただろう。辞めていったヤツは」
「九電君!」
「そろそろ行くわ。アイツの分も配達しないといけないしな」
美砂がまだ何か言っている。
しかしオレは聞こえない振りをして屋上を降りていった。
何も知らないくせに。
普段から口うるさい美砂だが、今日のアイツにはなぜか腹が立った。
オレには斉藤の気持ちがわかるつもりでいる。
FXと株では違うのかもしれないが、投資、いやギャンブルという分野に嵌った者の末路というのは知っているつもりだ。
成功だとか失敗だとか、儲けだとか損だとかはもはや関係ない。
斉藤の言っていた通りなんだ。
もし自分が足を洗ったあと、自分に有利な方向に動いたらどうしようか。
自分が決済した箇所が、最悪の場所だったらどうしようか。
日夜チャートを見ながらそのことしか考えられない。
日頃稼ぐ金の何倍もの金額がほんの数秒で上下する。
この分野で成功すれば、他には何も要らない。仕事も要らない。
逆に失敗すれば、他に何を手に入れたって無駄。仕事なんてしたって無駄。
美砂にはそのことがわからない。
江坂さんが辞めたときもそうだった。
未練がましく「また飲みに行きましょう」だなんて。
未来のお局様らしい考え方じゃないか。
仕事が大好き、職場が大好き。
そこで築く人間関係が大好き。
そういう仕事に関するしがらみが大好きなんだ、アイツは。
オレや斉藤は違う。
与えられた仕事に楽しみを見出すことなんてしない。
嫌々させられる仕事を懸命にこなそうなんて思わない。
渋々付き合う人たちとの関係を大事にしようとなんて思わないんだ。
美砂はたとえばここに一生働かなくたって済むくらいの大金が積まれていたとしても、足しげく職場に通う毎日を送るだろう。
だからたとえ一攫千金のチャンスが目の前に転がっていたとしても、そこに飛びついたりはしない。
アルバイトしてもらえる安い賃金に満足して、身分相応の毎日を送るのがアイツだ。
わかるはずがない。
オレや斉藤の考えなんて。
ATMで金を引き出した。
生活費として用意している金を、決められた日以外に引き出すのは初めての経験だ。
しかしその金は、ほんの数秒ほどのあいだに、証券会社の口座へと飲み込まれていく。
追証を回避するために。
一時的にセーフティを保つために。
20時を過ぎた今も百田は配達先を走り回っている。
一足先に営業所を出たオレは、百田に多少の負い目を感じたが、仕事より大事なことがあるんだからしょうがない。
携帯で見る赤い画面が元通りになった様子を見て、オレは胸を撫で下ろした。
昼間、美砂が噛み付いてきた斉藤のことが気にならないわけではない。
仕事を続けようが辞めようがアイツの自由だとは思うが、生活費の前借でピンチを補填できている今のオレと、消費者金融を回りに回ってようやく用意した金で勝負している斉藤とは、根本からして違う。
うまくいけば万々歳だが、もし失敗したら、今更なかったことにはできない。
それが斉藤の立場だ。
オレはもう一度斉藤のアパートを訪ねてみるつもりで隣の駅で降りた。
しかしアパートの前まで来たとき、オレは掲示板でボロカスに言われていた自分の有様を思い出した。
負けているときに聞かされる罵詈雑言。
だからお前はダメなんだと、何の根拠もなしに吐き散らかされる暴言の数々。
その辛さは誰よりもオレが知っている。
いや、見ず知らずの他人が書き殴った苦言ならまだしも、知り合いの、しかもリアルで毎日顔を突き合わせていた人間から聞かされる言葉は、オレが味わったもの以上に辛く苦しいものになる気がする。
ドアを叩こうと思ったとき、踏みとどまった。
オレはともかく、斉藤はきっとオレと会いたくはないだろう。
今日、為替がどうなったのかはオレも株ツールで見たが、斉藤がとっているであろうポジションが有利に動いたとはとても思えない。
となると、斉藤は今日も損をしている。
初めて追証に追い込まれたオレよりもずっと大きな金額を損している。
まさかとは思うが、自殺なんて。
ありえないと言えそうもないところが怖かった。
オレは斉藤のアパートを訪ねる代わりに、商店街のほうへ向かった。
斉藤の彼女に会いに行くためだった。
「あ、いらっしゃい、九電さん」
オレを迎え入れたアミは、どう贔屓目に見ても元気があるようには見えなかった。
オレが大損した話をいくらしたところで、心配はしてくれても持ち前の明るさを失わなかったアミが、今日はもの凄く落ち込んでいるように見えた。
「昨日はごめんね。変なとこ見せちゃって。気分悪くした?」
「いや、別に」
「座ってよ。いつものヤツ出すから」
カクテルの準備をしようと棚に向かうアミは足取りもおぼつかないぐらいフラフラした様子だった。
バーテンダーが「代わろうか?」と声をかけるものの、アミは気丈に「私のお客さんだから」と作業を続ける。
事情を知っているだけに、見ていて痛々しかった。
考えてみれば、オレはアミの本当の名前すら知らない。
ただ可愛いな、って思っただけ。
話していて楽しいな、って思っただけ。
アミはいつもオレの話を楽しそうに聞いてくれたが、アミが本当の意味で自分の話をすることは今まで一度もなかった。
結局オレとアミの関係は、常連のお客さんとそれを持て成すバーの店員どまり。
斉藤と暮らすアミが普段どんな顔をして、どんな思いで毎日を過ごしているのか。
オレには想像することもできなかった。
「斉藤のことだけどさ」
「え? ああ、うん」
「仕事辞めるって言ってきたよ、今日。一応止めたんだけどね」
「そっか、辞めるのか。せっかく頑張ってたのにね」
「実は辞めるってのは正確じゃないんだ。七月末にアイツの雇用期間が切れるんだけど、そこからの期間延長を拒否するって形になってる。だから今説得すれば、何とかなるかもしれない」
「…………」
「アミちゃん、説得してよ。オレからも言ってみたけど、聞かないんだ。でもアミちゃん、斉藤と付き合ってるんだしさ。アミちゃんから言えばアイツも」
「ダメよ、きっと」
「なんで? 言ってみたの?」
「ううん。仕事辞めるってのも今初めて聞いた」
「だったらさ」
「九電さん、一本もらっていい?」
アミが会話を強引に打ち切って、灰皿を持ってきた。
今日までのアミはずっとオレの隣に座って話相手になってくれるだけで、酒は飲まなかった。
煙草を吸うんだ、ということも、今の今まで知らなかった。
「私、龍君とは三年前に知り合ったの。高校卒業してすぐだったかな。このバーで働き始めたぐらいのときに軟派されたんだよ。あろうことかこの店で」
「……うん」
「龍君しつこかったんだ。毎日毎日お店に来てね。家が近いからって閉店までずっといるんだよ。私が休みだって知ったらすぐ帰っちゃったりしてね。私を狙ってるんだな、ってたぶん誰が見てもそう見えたと思う。あんまりしつこいから店長さんが、アミちゃんが嫌なら出禁にしようか? って言ってくれたんだけど、あのとき私についてくれるお客さんって龍君しかいなかったからさ。仕事だと思って割り切ってやってたの。三十回は告白されたかな。月に一回ぐらいはプレゼントももらった。正直困ってたんだけど、二十歳のときに、家を追い出されてね。定職にもつかずにこんなバイトして、って親に散々嫌なこと言われたんだ。それで住む家がなくなっちゃったからさ。どうしようかなって思ってたときに龍君が、家来る? って言ってくれて。そのまんま今に至るって感じなんだ」
「…………」
「龍君、自分のことばっかりなんだよ。お世話になってる私が言うのも変だけどさ。全然私のこととか、先のこととか考えてくれないの。だけど、なんでかな。龍君がFXやってるって知って、それでお金借りたりしてるってことを知ったとき、なんでかな。殴っちゃったんだよね、思いっきり。あはは、おかしいよね。確かに住む家がなくなったら困るけどさ。別にそこまで好きでもない人が何してたっていいのにね。なんか、自分でもよくわからないんだけど、もの凄く頭に来て。その上、仕事まで辞めるなんて、本当、あんなヤツ……」
アミが泣く。
目の周りから落ちた化粧が顔を汚していく。
手で拭いても次々に涙が出てきて、手まで汚れていく。
「ごめんね、ごめん。なんで私、こんなこと。九電さん、お客さんなのに」
「アミちゃん、斉藤のこと好きなんだよ、きっと」
「え?」
「好きでもない男の家に転がり込んだりしないって、普通」
「な、何言ってんの。好きじゃないよ。あんなヤツのこと。彼氏募集中って書いてあったでしょ? 私の名刺に」
「書いてあったね。オレ、ちょっと期待してたけど」
「そうなんだ。じゃあ九電さん、私と付き合ってよ。九電さん彼女いないんでしょ? 今独り暮らしなんでしょ? だったら付き合ってよ。私、今日から九電さんの家に」
「ダメ」
「なんでよ」
「オレ、斉藤ほどアミちゃんのこと好きじゃないから」
「期待してたって言ったじゃん!」
「それは、過去の話」
「嘘つき! 九電さんなんて嫌い!」
「ああ、嫌いで結構だ。帰るよ。お会計」
「うわあああああああああああ!!!!」
アミは泣きながら目いっぱいオレを叩いた。
他の客が何事かとオレたちを見る中、バーテンダーがアミを止めてくれる。
アミはしきりに「嘘つき! 嘘つき!」とオレを非難する。
オレは、もう何も言わずに店を出た。
本当言うと、こういう予感があるにはあった。
斉藤がFXをやってるって聞いた日、二人の様子を見て、たぶんうまくいっていないだろうなとオレは思った。
アミの付き合っている相手が斉藤でなければ、オレは今頃有頂天だったかもしれない。
斉藤を説得してくれ、なんて言いながらも、傷心しているであろうアミと話せばもしかしたら、なんて。
男である以上、こういう可能性を考えなかったわけじゃない。
それに斉藤はもう仕事を辞めるわけで、オレと会うこともなくなるだろう。
妙な三角関係になって、面倒なことに巻き込まれることもないだろう。
アミは斉藤に愛想をつかして、オレのところに来た、というだけの話だ。
それを思えばオレは単にチャンスをみすみす逃したようなもの。
なんであのとき黙って頷かなかった、と後悔する日が来るかもしれない。
でもどうしてもそんな気になれなかった。
泣いているアミを見たとき、ここにいるべきなのはオレじゃないという気がしてしまったのだ。
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