株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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「九電君、ありがとう。お世話になったね。これから長いと思うけど、無理せんと頑張りや」
今日の配達が一通り終わって、江坂さんがオレのところに来た。
前から聞いていたが、江坂さんは七月いっぱいで退職となり、今日はその送別会が行われるということだ。
美砂や斉藤は早々に仕事を切り上げて、予約していた店に行っている。
オレは主役の江坂さんの助っ人をやっていたから、20時を過ぎた今まで営業所にいるというわけだ。
「みんなもう待ってますよ。江坂さん急ぎましょう」
店の予約は美砂が担当している。
バイトのコールセンターが社員の送別会を仕切るのはどうなのか、と思わなくもないが、退社時刻の関係上、内勤の者が段取りを進めるのは、まぁ納得の行く話でもある。
管理職に就いている連中の歓送会となれば、朝のミーティングなどで周知され、半強制の参加となるものの、江坂さんの場合はオレたちと並ぶ配達員の立場なので、適当な者が音頭をとって、参加したい者だけ参加する、という流れになるのが通例だった。
江坂さんは八年前に関西の営業所から転勤してきたと聞いている。
前の職場はここと比べて都会の営業所だったそうで、田舎に飛ばされるのは左遷なのではないかと噂されていたらしい。
別に何かしらの不始末をやらかして、というわけではなさそうだが、江坂さんぐらいの年で配達員をやっているとなると、出世コースから外された人間であることは誰でも想像できると思う。
本来、人事異動の季節となる三月末ではなく、正社員にとっては半端な時期ともいえる七月末に退職を命じられたのも、おそらくは退職金を削る目的で追い込まれたからだろう。
現場で配達員をやる者にとっては、誰であろうと人員が削られるのは痛手でしかないが、江坂さんが勤め始めた時代といえば年功序列の制度が当然のようにあって、給料も右肩上がりだったというから、不況のご時世、人件費対策で年配者から切っていくというのは、ここでなくともよくある話だと思う。
電車に乗り込む江坂さんの背中が寂しそうに見えた。
毎日、一時間半をかけて営業所まで出勤してきている江坂さんと会うのは今日で最後かもしれない。
マイペースに仕事をこなす江坂さんは今日まで一度も交通事故を起こさなかったし、何かしらの大きな問題を起こすこともなかった。
時間に追われて慌てるオレに「九電君、焦ったってええことは何もない。トラックの早さも変わらへんで。落ち着こ。落ち着こ」なんて言っていつも笑っていた。
そんな江坂さんとも今日で、いや、今月でお別れか。
店の暖簾を潜ると、主役の到着はまだだというのに、美砂と斉藤を初めとした職場の連中はすっかりドンちゃん騒ぎのムードになっていた。
「あー、江坂さん! 遅いですよー! あんまり遅いからひょっとして来ないのかと思っちゃいました! 九電君! 引率ご苦労! ささ、主役は中央の席へどうぞー!」
誰から借りたのか、美砂は頭にネクタイを巻いている。
行儀もクソもあったもんじゃないが、飲み干したとっくりを持ったまま江坂さんを手招きする様子は、とても大先輩を送り出す姿勢ではなかった。
江坂さんは苦笑いしながら騒ぎの真ん中へと連行されていく。
すかさずコールセンター仲間の女性が両脇を固め、駆けつけ三杯よろしく、日本酒を注いでいる。
女性といっても、風俗に登場するような若い娘はこの場におらず、四十を過ぎたおばさんたちが懸命な笑みを向けてくる程度のものだった。
しかしそれでも江坂さんの年齢からしたら彼女たちも十分若いうちに入るらしい。
店に入るなり顔が赤いのは、飲んだばかりの日本酒と店の熱気のせいだけではない気がした。
「ほらほら九電君! なに突っ立ってんの! 大先輩に酌! 社会人の基本でしょ? 基本」
この場はオレを含めても十人に満たない小さな場だが、上司も管理者もいない中で美砂に勝てるヤツはいないらしい。
最年長者がおっとり者の江坂さんということもあってか、完全に美砂の独壇場だった。
とはいえ、美砂の言うことも一理あるのかもしれない。
大先輩に酌なんて初めてするが、江坂さんが空のお猪口を差し出すのでオレも流れに任せた。
「江坂さん、今までお疲れ様でした」
「ありがとう」
「仕事の後にこの雰囲気はまいりますね。特に美砂が」
「いやいや、そんなことないよ。美砂ちゃん、面白いねぇ。九電君と昔馴染みなんやって?」
「地元なんですよ。中学のときにテニス部で少し」
「そうかー。九電君、今いくつだっけ?」
「今年で29になります」
「ということは、美砂ちゃんは30か。ちょうどええ感じやんか。仲もよさそうやしな」
「は?」
「九電君、結婚とかは?」
場の雰囲気に飲まれているのか江坂さんがわけのわからないことを言っている。
ふと美砂を見ると、こいつはもっとわけのわからないことを言っていた。
「王様ゲームやる人、この指とーまれっ!」
美砂は脳の中枢辺りまでアルコールで支配されているようだ。
斉藤もバカ笑いしている。
にもかかわらず、しっかり美砂の指に止まっている様子はこいつのノリのよさというか、世渡りのうまさというかを体現しているような気がする。
いつの間にかオレと江坂さんも仲間に加えられていたようで、オレは三番と書かれた割り箸を一本引かされた。
「王様だーれだ? はいっ!!」
もう自作自演にしか見えなかった。
美砂が「王様♪」と書かれた割り箸を掲げる。
「うわぁ、どうしよっかなー。じゃね、じゃね。一番と五番が……。えっと。ぽ、ぽ、ぽ」
「美砂さん、30過ぎてそれはイタイですよ」
「過ぎてない! 私はまだ29! ええい! 一番と五番がポッキーだ!!」
「げぇっ!」
斉藤、一番か。
ちょうど正面に座っているコールセンターのアラフォー女性とペアとなったらしい。
アラフォーは「旦那になんて言えば……」とか何とか言っていたが、美砂からポッキーが差し出されると斉藤より先に先端を咥えた。
この様子を見て覚悟を決めたのか、斉藤は手持ちのグラスを一気に煽るとポッキーのもう片方へ。
かなり見ていたくないこの状況。
オレは江坂さんに逃げた。
「そういえば江坂さん、あの」
「斉藤君、いい子やなぁ」
「え?」
オレが何とか美砂たちとは関係ないような雰囲気を作り出そうとしているというのに、江坂さんはアラフォーと斉藤のコメディをしんみりと眺めている。
二人とも嫌々ながらやっているように見えて、実はこの状況を楽しんでいるんじゃないかと思わせる雰囲気があった。
斉藤は「ちょっと俺にはもったいなさ過ぎる相手でした」などとお世辞を言っている。
美砂が大笑いしながら「次だ、次だ!」と囃し立てて、またも割り箸を配り始めた。
「斉藤君も美砂ちゃんも、なんでアルバイトなんやろうなぁ。時代の違いかなぁ。二人ともいい子やのに、九電君と違っていつかはいなくなると思うと、なんかなぁ」
「……江坂さん、アルバイトと正社員の違いってなんですか」
「ん?」
「コールセンターの美砂はともかく、斉藤はオレと同じ仕事をしているじゃないですか。それなのに待遇が全然違うなんて、おかしいと思いませんか」
「アルバイトと正社員の違い、か」
江坂さんが煙草に火をつける傍ら、性懲りもなくまた割り箸が回ってきた。
次の王様はまたも美砂らしい。
さすがに仕組まれてるんじゃないかと疑いかけたとき、二番と三番が指名されて、ラップでどうのこうのと言っている。
わざわざ店員を呼びつけて必要な道具を用意させる辺り、美砂は恐ろしい。
斉藤が割り箸を見て青ざめているように見えるのは、こいつの悪運の強さを証明しているかのようだ。
さっきとは別のアラフォー女性が微笑む様は不気味でしょうがなかった。
「まぁ僕なんかが偉そうなことは言われへんけど、やっぱり将来性かなぁ、違いは」
「将来性ですか」
「うん、九電君はまだ若いからわからへんかもしれへんけど、正社員っていうんは、言ってみれば会社の幹部候補なんよ。この職場は転勤が多いから、上の人らも他所から来おるやろ? うちに来たときはいきなり係長やったり課長やったりするけど、みんな若い頃は僕らみたいな配達とか集荷とかを経験して来とるんよ。現場では大概無茶なこと言うたりもするけど、上の人らもそういうのは経験済みなんや。せやから僕らの気持ちとか考えてることもわかっとる。九電君は優秀やから、今は配達員やけど、もしかしたら五年後とか十年後には管理職に就いてるかもせぇへん。そのときに今の経験が活きてくるんや」
「…………」
「会社はな、九電君に出世を期待しとるんよ。これは九電君だけやない。正社員で働く人ら全員や。配達の仕事をこなすだけやったら時給制のアルバイトでも十分やけど、管理職はそういうわけにはいかへん。同じ仕事をしてるのに正社員の待遇がいいんは、会社が正社員に対して投資をしとるからや。この投資が活きるか死ぬかは、若い九電君の頑張りにかかっとるっちゅうわけや」
「じゃあ今のオレは、将来幹部になるための下積みをしてるってわけですか。でもオレ、出世なんて全然考えたこともないですよ。今は毎日の仕事が手一杯で」
「うん、そんな人もおるよ。だって僕がそうやんか」
「江坂さんが?」
「僕は昔、大阪で社員研修を受けたんよ。それで、そのまんまそこの営業所の配属になって二十六年勤めた。同期の人らは出世への階段をどんどん上っていってな。僕は置いてけぼりやった。うん、配達が好きやったのもあるかもしれへんけどな。椅子に座って偉そうなこと言うんは性に合ってへんし、何よりお客さんの喜んでくれる顔が僕の楽しみやった。それは今でも変わってへんで。でもな、会社にとって僕みたいなんは負担なんよ。給料ばっかり高いし、若い子のほうが体力もあるしな」
オレは江坂さんの配達を遅いと思ったことがある。
オレや斉藤のほうがたくさんの荷物を配達できるのに、給料は江坂さんのほうが高い、という年功序列の理不尽さを疎ましいと思ったこともある。
でも江坂さんは江坂さんのいいところがある。
入ったばかりの頃はオレも斉藤も何かと助けられた。
困ったときも味方をしてくれた。
色々教えてもらった。
「こっちの営業所に飛ばされてきて、通勤とか辛なったけど、でも僕はこっちに来てよかったと思う。転勤がなかったら九電君とも会えてへんやろうし、こんなに楽しい送別会を開いてくれることもなかったやろうしな」
「江坂さん! 話し込むのも結構ですけど、こっちにも参加してもらわないと困ります! 江坂さんが王様ですよ! 止まってますよ! ほらほら!」
美砂の野次が飛ぶ。
あれから何回罰ゲームが行われたのか、斉藤が撃沈している様を見るに、およそ一通りの相手とは遊び終えたといったところか。
美砂以外の王様役を見たのは今回が初めてかもしれない。
しかし江坂さんは「王様♪」の割り箸をテーブルに置く。
「ありがとう、美砂ちゃん。でもそろそろお開きにしようか。明日仕事の人もおるやろうし」
「えーっ! まだ早いですよ! 終電もまだありますよ! これからがいいとこなのに!」
「じゃあ王様の命令。王様と一番から八番は解散する」
「ずるいっ! そんなのずるいっ! 反則! それは反則です!」
美砂はぎゃあぎゃあ言うものの、場はすっかりお開きムードになっている。
遊びたがりの美砂はともかく、他の面々は解散のきっかけが欲しかったのかもしれない。
それを江坂さんが王様という名の鶴の一声でまとめにかかったというわけだ。
「皆さん、今日は本当にありがとうございました。僕、こんな楽しい皆さんに囲まれて、毎日幸せでした。僕は七月末で退職しますけど、皆さんとお別れすること、寂しく思います。これから暑くなりますけど、皆さんもお体に気をつけて、元気にお過ごしください。ありがとうございました」
拍手が上がった。
美砂が感極まって泣いている。
他の女性陣も若干しんみりしている。
「ま、また電話しますから! 江坂さん、家遠いですけど、絶対また飲みましょうね!」
「うん、ありがとう、美砂ちゃん」
帰り支度をする中、こんな日も悪くないなとオレは思った。
もしかしたら美砂は、江坂さんを楽しませようとして、わざと自分に王様が回ってくるように仕向けたのかもしれない。
斉藤には気の毒な話かもしれないが、美砂がいなかったらあんなに大騒ぎはできなかっただろう。
最後に江坂さんに王様を回したのも、ひょっとしたら……。
いいところあるじゃねぇか、美砂。
店を出ると、王様の命令通り大人しく解散となった。
斉藤が真っ先に姿を消したのは、未だアルコールの抜けない美砂の相手に疲れたからだろう。
散々痛めつけられていた光景を目の当たりにしていただけに、斉藤の気持ちが痛いほどよくわかった。
参加者の面々のほとんどは営業所の近くに住居を置いていることもあり、駅に向かうのはオレと美砂と江坂さんの三人だけだった。
反対方向の電車に乗る江坂さんに、美砂は名残惜しそうに食らいついていたが「職場の忘年会があったら僕も参加しようかな」という前向きな言質を得たことで、ようやく江坂さんを解放する気になったようだ。
乗り場で江坂さんを見送って、オレと美砂がその場に残される。
「さ! 気を取り直してもう一軒行きますか!」
「行かねぇよ」
「なんでよ! 明日休みでしょ!」
休みだけどさ。
っていうか、まだ付き合わなきゃなんねぇの?
この酔っ払いに?
斉藤も確か電車で来ているはずだが、オレたちより先に駅に向かったのは、もしかして美砂がこういうことを言い出す気配を感じてのことだったのか。
斉藤に加えて、最後の砦だった江坂さんが帰ってしまった今、美砂の餌食となるのはオレ独り。
やってしまったか、この展開は予想していなかった。
「ちょっと九電君! 付き合い悪いぞ! 女の子のほうから誘ってあげてるんだから、ここはバシッと行きつけのお店に連れて行くべきでしょ! チャンスなんだぞ、ほれほれ」
何がチャンスだよ。
オレは上機嫌で袖を引っ張る美砂の手を払いのけた。
これが、たとえばアミちゃんのような若い娘の誘いだというのなら、オレも二つ返事で了解しただろう。
しかし相手はコールセンターの中じゃ若いほうだとはいえ、一般的に言えば結構な年になる美砂だ。
いい加減落ち着きというか、年相応の振る舞いというか、社会人としてのわきまえというか、そういうものを身に着けていて当然の年齢だ。
美砂は一般的に自分がどう見られているのかわかっていないような節がある。
しかしそれも当然、職場ではコールセンターのおばさん連中に「若い若い」と言われ続けているわけだ。
単純な美砂がそのお世辞というか、あくまで「言う人から見たら若い」という立場を真に受けてしまってもおかしくはない気がする。
ちょっと現実を知らしめるべきか。
今日はともかく、今後もこのノリで来られると面倒だし。
「行きつけの店と言ったな?」
「おっ? もしかして、あるのか?」
「ある」
「まさかホテルじゃないでしょうね」
「違うから安心しろ」
慌てないオレの反応をつまらなく思ったのか、美砂のテンションが若干落ちる。
しかしよく考えてみればここで「そうだ、その通りだ」と即答しておけば、美砂は大人しく帰ったのではないか。
目的の駅で降りるまでそのことに気がつかないオレはなんと抜けていることだろう。
結局美砂をアミの店に案内することになってしまうとは、今日一日の中で最大の不覚だった。
「いらっしゃいませー!」
オレは昨日に引き続いて連日で、となるわけだが、オレと美砂を迎えたアミはそのことを言及しようとしなかった。
というか、アミは一応女連れとも言える格好で来店したオレを見るなり、いつもの雰囲気から一般的な店員の雰囲気に変わった気がする。
オレと美砂に普通のメニューを持ってきた。
「へぇー。九電君、お洒落なお店知ってるんだねー」
そう言ってキョロキョロする美砂。
初めて日本に来た外国人の旅行者が空港で出口を探しているときはこういう感じなんだろうな、と何となく思った。
「メニューはお決まりですか?」
物腰柔らかなアミの声。
はしゃいだり騒いだりする美砂と違って、落ち着いた女性という感じがするアミの笑み。
これを見習えよ、美砂。
お前はこういうところが欠けているんだよ。
「えっと、この、英語で書かれてるからよくわかんないなー。モスコミュールとかあります?」
「はい、ございます」
「そんじゃ、とりあえずそれで。九電君は?」
「オーシャンブルーフィズを」
「かしこまりました。少々お待ちください」
なんか、もの凄く他人行儀な感じ。
いや、今日は一応連れ立ってきているし、客のプライベートに割り込まないためにあえてああいう対応をしているのか。
公私混同しないために適切な配慮を考えていると、つまりはそういうことか。
困惑と納得が入り混じるオレ。
美砂をここに連れて来た思惑からすれば、むしろ好都合な気がする。
「なんか大人っぽい店員さんだね」
「そうだろ? あれで二十一だぜ?」
「嘘だー! 見えないー!」
「お前いくつだっけ?」
「あの人と同じで二十代の女性です」
「ごまかすなよ。居酒屋で高らかに宣言してただろ」
「オーシャンブルーフィズっておいしいの?」
「話を逸らすな。お前は自分と向き合うべきだ」
「え、何の話?」
「だから年の話」
「二十代だよ?」
「それは間違ってないが、二十代でも上と下があるだろ」
「オーシャンブルーフィズ、ひと口ちょうだいね。私のもちょっとあげるから」
「だから!」
「お待たせしました」
埒が明かない不毛な会話の最中、アミがグラスを二つ持ってきた。
得意技を披露してもらっていないが、今日のアミはウエイトレスに徹底しようという趣旨なのかもしれない。
厳かにグラスを配る。
「九電さん彼女いないって言ってたのに」
「誤解だよ、アミちゃん」
「じゃあ、どんな関係なの?」
「ただの同僚」
「嘘だー」
店員の仮面を割って笑うアミ。
運ばれてきたオレのグラスを美砂が勝手に拝借している様を見れば、ああなるほど、そう見られても不思議はないのか。
ひと口と言っておいて半分ほど飲み干した後、美砂が自分に運ばれてきたモスコミュールをオレに差し出した。
「私、こっちにするよ。九電君、私のヤツあげるね」
これでアミちゃんより八つも年上か。
「嘘だー」とか言いたいのはオレのほうなんじゃないのか。
「お気に召しましたか、お客様」
「うん、さっきのお店で飲んでたヤツより断然おいしい」
「ありがとうございます。フルーツ関係のカクテルは私もちょっと詳しいんですよ」
「へぇ、そうなんだー。じゃあこっちのヤツは?」
「スクリュードライバーですね。ウォッカをベースにオレンジジュースが入っております」
「ああ、あの居酒屋とかでよくあるヤツか」
「当店のメニューは一般的な居酒屋で飲まれるものよりアルコール度数が強いものとなっておりますが、口当たりは甘めで飲みやすい人気メニューですね」
「おっけー、じゃあ次それ」
「かしこまりました。失礼ですが、本日は徒歩でご来店で?」
「え? あ、いや。電車だけど」
「さようでございますか。でしたら度数は抑えておきましょうか? 口当たりの良いものほどグラスが進みますので、お帰りの際に」
「あ、その辺は全然大丈夫。いざとなったら九電君が送るから! ね?」
なんでそうなる。
いつからオレはお前の付き人になったんだ。
オレは露骨に嫌な顔を作ってモスコミュールを頂く。
美砂はさっきの店でも相当飲んでいたみたいだから、最後まで一緒にいると面倒を背負うハメになりそうだ。
元々オレには「もう一軒」なんて気はなくて、アミの「若いのにしっかりした姿勢」というヤツを美砂に見せれば、多少は美砂も自分を自覚して大人しくなるかな、というのが狙いだったわけだから、それが通用しなくなった以上、店に留まる理由はない。
オレが美砂と話そうとしないからか、スクリュードライバーを振舞ってからのアミは、カクテルの話から始まり仕事の苦労の話、好きなブランド物の話、化粧品の話、などなど、概ねオレがついていけそうにない話題を中心に美砂と盛り上がっていた。
まぁアミからすれば美砂も大事な客の一人で、飲みすぎることを心配しながらもカパカパとグラスを空けてくれる様子は見ていて気持ちがいいものなんだろう。
居づらい雰囲気の中、最初の一杯と煙草で耐えているオレは、帰りを切り出すタイミングを伺っていた。
「でねでね、そのとき九電君がさー。なんて言ったと思う? そんなのお前のほうで何とかしろよ、だって! 信じられない。そりゃ配達忙しいのはわかるけどさ。もうちょっと愛想っていうか、その辺考えてくれたっていいと思わない? 九電君、私が話しかけるといっつも嫌そうな顔するんだから」
「そうなんですか?」
「そうそう、そうなのよ! さっきも言ったでしょ。私はコールセンターだから、お客さんの要望を配達の人に伝える義務があるわけ! 色んな人がいるよ。昼間は寝てるからチャイムを鳴らさないでくれとか、近所の同姓の家に不在票がよく入るから注意してくれとか、配達員が煙草臭いから何とかしてくれとか。こんなの簡単なことじゃん。ちょっと気をつければ直せるっていうか、配達員の気持ち一つで何とかできるわけでしょ。なのに九電君ってば、面倒臭そうな顔しちゃってさ。電話越しに謝らされる私の身にもなって欲しいわけよ。ちょっと聞いてる? 九電君? もしもーし」
「いつの間に話相手がオレに変わってるんだよ」
「何言ってんの。話相手はアミちゃんだよ。でも今は九電君の話だよ。だから話に入ってきてくれないと困るよ」
「勝手を言うな、勝手を」
「ほら見てよ、アミちゃん。いっつもこれなんだよ? 酷いと思わない? 私のこと、なんだと思ってんの、って思わない? 私がせっかく問題が大きくならないように気を利かせてあげてんのに、これ。この態度。うわぁ、もうダメだわ。正社員失格。アルバイトに降格です!」
「美砂さんって、なんか九電さんの話するとき、楽しそうですよね」
「え? そうかな」
「はい、なんかそう見えます」
「いや、だからそれは」
「なんですか?」
「ちょっと九電君、何とか言ってよ!」
何とかって、何をだよ。
本当はもうちょっとタイミングを伺っていたかったが、メンタル面が限界だ。
オレはなおもぎゃあぎゃあ言ってくる美砂を無視して、財布から万札を出した。
「美砂、今日は奢ってやるから帰らせろ。閉店までお前の愚痴を隣で聞かされてたら、明日一日の休みだけじゃ週明けの仕事についていけなくなる自信がある」
「あー、逃げる気だな? そうはさせんぞ!」
「アミちゃん、あとよろしく。ああ、コイツは飲みまくっても独りで帰れるから心配しないで。ラストオーダー過ぎたら遠慮なく放り出していいから」
「なにをー! 人を酔っ払いみたいに言いやがってー!」
「酔っ払いだろ、アホ。じゃな、適当に帰れよ」
江坂さんの鶴の一声で場がお開きになったことはよかったが、後のオレの判断ミスのせいで酷い目に遭ってしまった。
週末にブログの更新すらする気になれないぐらい打ちのめされたオレは、帰るなり布団に倒れこんだ。
今日の配達が一通り終わって、江坂さんがオレのところに来た。
前から聞いていたが、江坂さんは七月いっぱいで退職となり、今日はその送別会が行われるということだ。
美砂や斉藤は早々に仕事を切り上げて、予約していた店に行っている。
オレは主役の江坂さんの助っ人をやっていたから、20時を過ぎた今まで営業所にいるというわけだ。
「みんなもう待ってますよ。江坂さん急ぎましょう」
店の予約は美砂が担当している。
バイトのコールセンターが社員の送別会を仕切るのはどうなのか、と思わなくもないが、退社時刻の関係上、内勤の者が段取りを進めるのは、まぁ納得の行く話でもある。
管理職に就いている連中の歓送会となれば、朝のミーティングなどで周知され、半強制の参加となるものの、江坂さんの場合はオレたちと並ぶ配達員の立場なので、適当な者が音頭をとって、参加したい者だけ参加する、という流れになるのが通例だった。
江坂さんは八年前に関西の営業所から転勤してきたと聞いている。
前の職場はここと比べて都会の営業所だったそうで、田舎に飛ばされるのは左遷なのではないかと噂されていたらしい。
別に何かしらの不始末をやらかして、というわけではなさそうだが、江坂さんぐらいの年で配達員をやっているとなると、出世コースから外された人間であることは誰でも想像できると思う。
本来、人事異動の季節となる三月末ではなく、正社員にとっては半端な時期ともいえる七月末に退職を命じられたのも、おそらくは退職金を削る目的で追い込まれたからだろう。
現場で配達員をやる者にとっては、誰であろうと人員が削られるのは痛手でしかないが、江坂さんが勤め始めた時代といえば年功序列の制度が当然のようにあって、給料も右肩上がりだったというから、不況のご時世、人件費対策で年配者から切っていくというのは、ここでなくともよくある話だと思う。
電車に乗り込む江坂さんの背中が寂しそうに見えた。
毎日、一時間半をかけて営業所まで出勤してきている江坂さんと会うのは今日で最後かもしれない。
マイペースに仕事をこなす江坂さんは今日まで一度も交通事故を起こさなかったし、何かしらの大きな問題を起こすこともなかった。
時間に追われて慌てるオレに「九電君、焦ったってええことは何もない。トラックの早さも変わらへんで。落ち着こ。落ち着こ」なんて言っていつも笑っていた。
そんな江坂さんとも今日で、いや、今月でお別れか。
店の暖簾を潜ると、主役の到着はまだだというのに、美砂と斉藤を初めとした職場の連中はすっかりドンちゃん騒ぎのムードになっていた。
「あー、江坂さん! 遅いですよー! あんまり遅いからひょっとして来ないのかと思っちゃいました! 九電君! 引率ご苦労! ささ、主役は中央の席へどうぞー!」
誰から借りたのか、美砂は頭にネクタイを巻いている。
行儀もクソもあったもんじゃないが、飲み干したとっくりを持ったまま江坂さんを手招きする様子は、とても大先輩を送り出す姿勢ではなかった。
江坂さんは苦笑いしながら騒ぎの真ん中へと連行されていく。
すかさずコールセンター仲間の女性が両脇を固め、駆けつけ三杯よろしく、日本酒を注いでいる。
女性といっても、風俗に登場するような若い娘はこの場におらず、四十を過ぎたおばさんたちが懸命な笑みを向けてくる程度のものだった。
しかしそれでも江坂さんの年齢からしたら彼女たちも十分若いうちに入るらしい。
店に入るなり顔が赤いのは、飲んだばかりの日本酒と店の熱気のせいだけではない気がした。
「ほらほら九電君! なに突っ立ってんの! 大先輩に酌! 社会人の基本でしょ? 基本」
この場はオレを含めても十人に満たない小さな場だが、上司も管理者もいない中で美砂に勝てるヤツはいないらしい。
最年長者がおっとり者の江坂さんということもあってか、完全に美砂の独壇場だった。
とはいえ、美砂の言うことも一理あるのかもしれない。
大先輩に酌なんて初めてするが、江坂さんが空のお猪口を差し出すのでオレも流れに任せた。
「江坂さん、今までお疲れ様でした」
「ありがとう」
「仕事の後にこの雰囲気はまいりますね。特に美砂が」
「いやいや、そんなことないよ。美砂ちゃん、面白いねぇ。九電君と昔馴染みなんやって?」
「地元なんですよ。中学のときにテニス部で少し」
「そうかー。九電君、今いくつだっけ?」
「今年で29になります」
「ということは、美砂ちゃんは30か。ちょうどええ感じやんか。仲もよさそうやしな」
「は?」
「九電君、結婚とかは?」
場の雰囲気に飲まれているのか江坂さんがわけのわからないことを言っている。
ふと美砂を見ると、こいつはもっとわけのわからないことを言っていた。
「王様ゲームやる人、この指とーまれっ!」
美砂は脳の中枢辺りまでアルコールで支配されているようだ。
斉藤もバカ笑いしている。
にもかかわらず、しっかり美砂の指に止まっている様子はこいつのノリのよさというか、世渡りのうまさというかを体現しているような気がする。
いつの間にかオレと江坂さんも仲間に加えられていたようで、オレは三番と書かれた割り箸を一本引かされた。
「王様だーれだ? はいっ!!」
もう自作自演にしか見えなかった。
美砂が「王様♪」と書かれた割り箸を掲げる。
「うわぁ、どうしよっかなー。じゃね、じゃね。一番と五番が……。えっと。ぽ、ぽ、ぽ」
「美砂さん、30過ぎてそれはイタイですよ」
「過ぎてない! 私はまだ29! ええい! 一番と五番がポッキーだ!!」
「げぇっ!」
斉藤、一番か。
ちょうど正面に座っているコールセンターのアラフォー女性とペアとなったらしい。
アラフォーは「旦那になんて言えば……」とか何とか言っていたが、美砂からポッキーが差し出されると斉藤より先に先端を咥えた。
この様子を見て覚悟を決めたのか、斉藤は手持ちのグラスを一気に煽るとポッキーのもう片方へ。
かなり見ていたくないこの状況。
オレは江坂さんに逃げた。
「そういえば江坂さん、あの」
「斉藤君、いい子やなぁ」
「え?」
オレが何とか美砂たちとは関係ないような雰囲気を作り出そうとしているというのに、江坂さんはアラフォーと斉藤のコメディをしんみりと眺めている。
二人とも嫌々ながらやっているように見えて、実はこの状況を楽しんでいるんじゃないかと思わせる雰囲気があった。
斉藤は「ちょっと俺にはもったいなさ過ぎる相手でした」などとお世辞を言っている。
美砂が大笑いしながら「次だ、次だ!」と囃し立てて、またも割り箸を配り始めた。
「斉藤君も美砂ちゃんも、なんでアルバイトなんやろうなぁ。時代の違いかなぁ。二人ともいい子やのに、九電君と違っていつかはいなくなると思うと、なんかなぁ」
「……江坂さん、アルバイトと正社員の違いってなんですか」
「ん?」
「コールセンターの美砂はともかく、斉藤はオレと同じ仕事をしているじゃないですか。それなのに待遇が全然違うなんて、おかしいと思いませんか」
「アルバイトと正社員の違い、か」
江坂さんが煙草に火をつける傍ら、性懲りもなくまた割り箸が回ってきた。
次の王様はまたも美砂らしい。
さすがに仕組まれてるんじゃないかと疑いかけたとき、二番と三番が指名されて、ラップでどうのこうのと言っている。
わざわざ店員を呼びつけて必要な道具を用意させる辺り、美砂は恐ろしい。
斉藤が割り箸を見て青ざめているように見えるのは、こいつの悪運の強さを証明しているかのようだ。
さっきとは別のアラフォー女性が微笑む様は不気味でしょうがなかった。
「まぁ僕なんかが偉そうなことは言われへんけど、やっぱり将来性かなぁ、違いは」
「将来性ですか」
「うん、九電君はまだ若いからわからへんかもしれへんけど、正社員っていうんは、言ってみれば会社の幹部候補なんよ。この職場は転勤が多いから、上の人らも他所から来おるやろ? うちに来たときはいきなり係長やったり課長やったりするけど、みんな若い頃は僕らみたいな配達とか集荷とかを経験して来とるんよ。現場では大概無茶なこと言うたりもするけど、上の人らもそういうのは経験済みなんや。せやから僕らの気持ちとか考えてることもわかっとる。九電君は優秀やから、今は配達員やけど、もしかしたら五年後とか十年後には管理職に就いてるかもせぇへん。そのときに今の経験が活きてくるんや」
「…………」
「会社はな、九電君に出世を期待しとるんよ。これは九電君だけやない。正社員で働く人ら全員や。配達の仕事をこなすだけやったら時給制のアルバイトでも十分やけど、管理職はそういうわけにはいかへん。同じ仕事をしてるのに正社員の待遇がいいんは、会社が正社員に対して投資をしとるからや。この投資が活きるか死ぬかは、若い九電君の頑張りにかかっとるっちゅうわけや」
「じゃあ今のオレは、将来幹部になるための下積みをしてるってわけですか。でもオレ、出世なんて全然考えたこともないですよ。今は毎日の仕事が手一杯で」
「うん、そんな人もおるよ。だって僕がそうやんか」
「江坂さんが?」
「僕は昔、大阪で社員研修を受けたんよ。それで、そのまんまそこの営業所の配属になって二十六年勤めた。同期の人らは出世への階段をどんどん上っていってな。僕は置いてけぼりやった。うん、配達が好きやったのもあるかもしれへんけどな。椅子に座って偉そうなこと言うんは性に合ってへんし、何よりお客さんの喜んでくれる顔が僕の楽しみやった。それは今でも変わってへんで。でもな、会社にとって僕みたいなんは負担なんよ。給料ばっかり高いし、若い子のほうが体力もあるしな」
オレは江坂さんの配達を遅いと思ったことがある。
オレや斉藤のほうがたくさんの荷物を配達できるのに、給料は江坂さんのほうが高い、という年功序列の理不尽さを疎ましいと思ったこともある。
でも江坂さんは江坂さんのいいところがある。
入ったばかりの頃はオレも斉藤も何かと助けられた。
困ったときも味方をしてくれた。
色々教えてもらった。
「こっちの営業所に飛ばされてきて、通勤とか辛なったけど、でも僕はこっちに来てよかったと思う。転勤がなかったら九電君とも会えてへんやろうし、こんなに楽しい送別会を開いてくれることもなかったやろうしな」
「江坂さん! 話し込むのも結構ですけど、こっちにも参加してもらわないと困ります! 江坂さんが王様ですよ! 止まってますよ! ほらほら!」
美砂の野次が飛ぶ。
あれから何回罰ゲームが行われたのか、斉藤が撃沈している様を見るに、およそ一通りの相手とは遊び終えたといったところか。
美砂以外の王様役を見たのは今回が初めてかもしれない。
しかし江坂さんは「王様♪」の割り箸をテーブルに置く。
「ありがとう、美砂ちゃん。でもそろそろお開きにしようか。明日仕事の人もおるやろうし」
「えーっ! まだ早いですよ! 終電もまだありますよ! これからがいいとこなのに!」
「じゃあ王様の命令。王様と一番から八番は解散する」
「ずるいっ! そんなのずるいっ! 反則! それは反則です!」
美砂はぎゃあぎゃあ言うものの、場はすっかりお開きムードになっている。
遊びたがりの美砂はともかく、他の面々は解散のきっかけが欲しかったのかもしれない。
それを江坂さんが王様という名の鶴の一声でまとめにかかったというわけだ。
「皆さん、今日は本当にありがとうございました。僕、こんな楽しい皆さんに囲まれて、毎日幸せでした。僕は七月末で退職しますけど、皆さんとお別れすること、寂しく思います。これから暑くなりますけど、皆さんもお体に気をつけて、元気にお過ごしください。ありがとうございました」
拍手が上がった。
美砂が感極まって泣いている。
他の女性陣も若干しんみりしている。
「ま、また電話しますから! 江坂さん、家遠いですけど、絶対また飲みましょうね!」
「うん、ありがとう、美砂ちゃん」
帰り支度をする中、こんな日も悪くないなとオレは思った。
もしかしたら美砂は、江坂さんを楽しませようとして、わざと自分に王様が回ってくるように仕向けたのかもしれない。
斉藤には気の毒な話かもしれないが、美砂がいなかったらあんなに大騒ぎはできなかっただろう。
最後に江坂さんに王様を回したのも、ひょっとしたら……。
いいところあるじゃねぇか、美砂。
店を出ると、王様の命令通り大人しく解散となった。
斉藤が真っ先に姿を消したのは、未だアルコールの抜けない美砂の相手に疲れたからだろう。
散々痛めつけられていた光景を目の当たりにしていただけに、斉藤の気持ちが痛いほどよくわかった。
参加者の面々のほとんどは営業所の近くに住居を置いていることもあり、駅に向かうのはオレと美砂と江坂さんの三人だけだった。
反対方向の電車に乗る江坂さんに、美砂は名残惜しそうに食らいついていたが「職場の忘年会があったら僕も参加しようかな」という前向きな言質を得たことで、ようやく江坂さんを解放する気になったようだ。
乗り場で江坂さんを見送って、オレと美砂がその場に残される。
「さ! 気を取り直してもう一軒行きますか!」
「行かねぇよ」
「なんでよ! 明日休みでしょ!」
休みだけどさ。
っていうか、まだ付き合わなきゃなんねぇの?
この酔っ払いに?
斉藤も確か電車で来ているはずだが、オレたちより先に駅に向かったのは、もしかして美砂がこういうことを言い出す気配を感じてのことだったのか。
斉藤に加えて、最後の砦だった江坂さんが帰ってしまった今、美砂の餌食となるのはオレ独り。
やってしまったか、この展開は予想していなかった。
「ちょっと九電君! 付き合い悪いぞ! 女の子のほうから誘ってあげてるんだから、ここはバシッと行きつけのお店に連れて行くべきでしょ! チャンスなんだぞ、ほれほれ」
何がチャンスだよ。
オレは上機嫌で袖を引っ張る美砂の手を払いのけた。
これが、たとえばアミちゃんのような若い娘の誘いだというのなら、オレも二つ返事で了解しただろう。
しかし相手はコールセンターの中じゃ若いほうだとはいえ、一般的に言えば結構な年になる美砂だ。
いい加減落ち着きというか、年相応の振る舞いというか、社会人としてのわきまえというか、そういうものを身に着けていて当然の年齢だ。
美砂は一般的に自分がどう見られているのかわかっていないような節がある。
しかしそれも当然、職場ではコールセンターのおばさん連中に「若い若い」と言われ続けているわけだ。
単純な美砂がそのお世辞というか、あくまで「言う人から見たら若い」という立場を真に受けてしまってもおかしくはない気がする。
ちょっと現実を知らしめるべきか。
今日はともかく、今後もこのノリで来られると面倒だし。
「行きつけの店と言ったな?」
「おっ? もしかして、あるのか?」
「ある」
「まさかホテルじゃないでしょうね」
「違うから安心しろ」
慌てないオレの反応をつまらなく思ったのか、美砂のテンションが若干落ちる。
しかしよく考えてみればここで「そうだ、その通りだ」と即答しておけば、美砂は大人しく帰ったのではないか。
目的の駅で降りるまでそのことに気がつかないオレはなんと抜けていることだろう。
結局美砂をアミの店に案内することになってしまうとは、今日一日の中で最大の不覚だった。
「いらっしゃいませー!」
オレは昨日に引き続いて連日で、となるわけだが、オレと美砂を迎えたアミはそのことを言及しようとしなかった。
というか、アミは一応女連れとも言える格好で来店したオレを見るなり、いつもの雰囲気から一般的な店員の雰囲気に変わった気がする。
オレと美砂に普通のメニューを持ってきた。
「へぇー。九電君、お洒落なお店知ってるんだねー」
そう言ってキョロキョロする美砂。
初めて日本に来た外国人の旅行者が空港で出口を探しているときはこういう感じなんだろうな、と何となく思った。
「メニューはお決まりですか?」
物腰柔らかなアミの声。
はしゃいだり騒いだりする美砂と違って、落ち着いた女性という感じがするアミの笑み。
これを見習えよ、美砂。
お前はこういうところが欠けているんだよ。
「えっと、この、英語で書かれてるからよくわかんないなー。モスコミュールとかあります?」
「はい、ございます」
「そんじゃ、とりあえずそれで。九電君は?」
「オーシャンブルーフィズを」
「かしこまりました。少々お待ちください」
なんか、もの凄く他人行儀な感じ。
いや、今日は一応連れ立ってきているし、客のプライベートに割り込まないためにあえてああいう対応をしているのか。
公私混同しないために適切な配慮を考えていると、つまりはそういうことか。
困惑と納得が入り混じるオレ。
美砂をここに連れて来た思惑からすれば、むしろ好都合な気がする。
「なんか大人っぽい店員さんだね」
「そうだろ? あれで二十一だぜ?」
「嘘だー! 見えないー!」
「お前いくつだっけ?」
「あの人と同じで二十代の女性です」
「ごまかすなよ。居酒屋で高らかに宣言してただろ」
「オーシャンブルーフィズっておいしいの?」
「話を逸らすな。お前は自分と向き合うべきだ」
「え、何の話?」
「だから年の話」
「二十代だよ?」
「それは間違ってないが、二十代でも上と下があるだろ」
「オーシャンブルーフィズ、ひと口ちょうだいね。私のもちょっとあげるから」
「だから!」
「お待たせしました」
埒が明かない不毛な会話の最中、アミがグラスを二つ持ってきた。
得意技を披露してもらっていないが、今日のアミはウエイトレスに徹底しようという趣旨なのかもしれない。
厳かにグラスを配る。
「九電さん彼女いないって言ってたのに」
「誤解だよ、アミちゃん」
「じゃあ、どんな関係なの?」
「ただの同僚」
「嘘だー」
店員の仮面を割って笑うアミ。
運ばれてきたオレのグラスを美砂が勝手に拝借している様を見れば、ああなるほど、そう見られても不思議はないのか。
ひと口と言っておいて半分ほど飲み干した後、美砂が自分に運ばれてきたモスコミュールをオレに差し出した。
「私、こっちにするよ。九電君、私のヤツあげるね」
これでアミちゃんより八つも年上か。
「嘘だー」とか言いたいのはオレのほうなんじゃないのか。
「お気に召しましたか、お客様」
「うん、さっきのお店で飲んでたヤツより断然おいしい」
「ありがとうございます。フルーツ関係のカクテルは私もちょっと詳しいんですよ」
「へぇ、そうなんだー。じゃあこっちのヤツは?」
「スクリュードライバーですね。ウォッカをベースにオレンジジュースが入っております」
「ああ、あの居酒屋とかでよくあるヤツか」
「当店のメニューは一般的な居酒屋で飲まれるものよりアルコール度数が強いものとなっておりますが、口当たりは甘めで飲みやすい人気メニューですね」
「おっけー、じゃあ次それ」
「かしこまりました。失礼ですが、本日は徒歩でご来店で?」
「え? あ、いや。電車だけど」
「さようでございますか。でしたら度数は抑えておきましょうか? 口当たりの良いものほどグラスが進みますので、お帰りの際に」
「あ、その辺は全然大丈夫。いざとなったら九電君が送るから! ね?」
なんでそうなる。
いつからオレはお前の付き人になったんだ。
オレは露骨に嫌な顔を作ってモスコミュールを頂く。
美砂はさっきの店でも相当飲んでいたみたいだから、最後まで一緒にいると面倒を背負うハメになりそうだ。
元々オレには「もう一軒」なんて気はなくて、アミの「若いのにしっかりした姿勢」というヤツを美砂に見せれば、多少は美砂も自分を自覚して大人しくなるかな、というのが狙いだったわけだから、それが通用しなくなった以上、店に留まる理由はない。
オレが美砂と話そうとしないからか、スクリュードライバーを振舞ってからのアミは、カクテルの話から始まり仕事の苦労の話、好きなブランド物の話、化粧品の話、などなど、概ねオレがついていけそうにない話題を中心に美砂と盛り上がっていた。
まぁアミからすれば美砂も大事な客の一人で、飲みすぎることを心配しながらもカパカパとグラスを空けてくれる様子は見ていて気持ちがいいものなんだろう。
居づらい雰囲気の中、最初の一杯と煙草で耐えているオレは、帰りを切り出すタイミングを伺っていた。
「でねでね、そのとき九電君がさー。なんて言ったと思う? そんなのお前のほうで何とかしろよ、だって! 信じられない。そりゃ配達忙しいのはわかるけどさ。もうちょっと愛想っていうか、その辺考えてくれたっていいと思わない? 九電君、私が話しかけるといっつも嫌そうな顔するんだから」
「そうなんですか?」
「そうそう、そうなのよ! さっきも言ったでしょ。私はコールセンターだから、お客さんの要望を配達の人に伝える義務があるわけ! 色んな人がいるよ。昼間は寝てるからチャイムを鳴らさないでくれとか、近所の同姓の家に不在票がよく入るから注意してくれとか、配達員が煙草臭いから何とかしてくれとか。こんなの簡単なことじゃん。ちょっと気をつければ直せるっていうか、配達員の気持ち一つで何とかできるわけでしょ。なのに九電君ってば、面倒臭そうな顔しちゃってさ。電話越しに謝らされる私の身にもなって欲しいわけよ。ちょっと聞いてる? 九電君? もしもーし」
「いつの間に話相手がオレに変わってるんだよ」
「何言ってんの。話相手はアミちゃんだよ。でも今は九電君の話だよ。だから話に入ってきてくれないと困るよ」
「勝手を言うな、勝手を」
「ほら見てよ、アミちゃん。いっつもこれなんだよ? 酷いと思わない? 私のこと、なんだと思ってんの、って思わない? 私がせっかく問題が大きくならないように気を利かせてあげてんのに、これ。この態度。うわぁ、もうダメだわ。正社員失格。アルバイトに降格です!」
「美砂さんって、なんか九電さんの話するとき、楽しそうですよね」
「え? そうかな」
「はい、なんかそう見えます」
「いや、だからそれは」
「なんですか?」
「ちょっと九電君、何とか言ってよ!」
何とかって、何をだよ。
本当はもうちょっとタイミングを伺っていたかったが、メンタル面が限界だ。
オレはなおもぎゃあぎゃあ言ってくる美砂を無視して、財布から万札を出した。
「美砂、今日は奢ってやるから帰らせろ。閉店までお前の愚痴を隣で聞かされてたら、明日一日の休みだけじゃ週明けの仕事についていけなくなる自信がある」
「あー、逃げる気だな? そうはさせんぞ!」
「アミちゃん、あとよろしく。ああ、コイツは飲みまくっても独りで帰れるから心配しないで。ラストオーダー過ぎたら遠慮なく放り出していいから」
「なにをー! 人を酔っ払いみたいに言いやがってー!」
「酔っ払いだろ、アホ。じゃな、適当に帰れよ」
江坂さんの鶴の一声で場がお開きになったことはよかったが、後のオレの判断ミスのせいで酷い目に遭ってしまった。
週末にブログの更新すらする気になれないぐらい打ちのめされたオレは、帰るなり布団に倒れこんだ。
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