株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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江坂さんは有給消化のため、退職日までほとんど出勤してこない。
引継ぎ、というか江坂さんの担当区域の情報共有のために営業所に顔を出す日もあるが、配達要員としての数には入れられていないというところか。
あの送別会の日から二日後の月曜日、東京の営業所から二十代前半の男性がうちに転勤して来た。
百田と名乗ったその男性は、まだ勤務暦一年半程度の新米だが、大学卒で、採用されるなりいきなり厳しい都会の営業所に配属となったためか、物覚えがよく、体力もあり、熟練の江坂さんをはるかに上回る仕事量をこなしていた。
とはいえ、まだまだ勤めて間もない新人だ。それに若者でもある。
長年同じ営業所で配達をやっている人たちからすれば、いかに仕事ができようとも生意気なヤツは嫌われる。
しかし百田はその辺の業界事情もよく心得ていて、アルバイトの斉藤や美砂にまで敬語で話している様は多くの同僚に好印象を与えていた。
美砂が「百田君の歓迎会をやろう!」と騒いでいたが、引越し作業の関係で主役は当分忙しいという。
うちの営業所は管理職以外の歓送会は、職場をあげてはしないので、まぁ主役となる人物の人間性次第ではなかったりすることもある。
しかし「一ヶ月ぐらい先なら大丈夫だよね?」と美砂が食い下がっている様は、百田が入って早々嫌われるタイプでないことを意味していた。
オレも百田のことは嫌いじゃなかった。
「気に入らないヤツですね、あの新人」
しかし斉藤はどうも違うようだった。
屋上の喫煙所で肩を並べて、百田の話題が上るたび斉藤は嫌な顔をする。
「生意気ですよ。権力のありそうな人に媚売っちゃったりしてさ。江坂さんがずっといてくれたほうがよかったのに」
「そうは言ってももう歳だろ、江坂さん。定年ギリギリまで現役で配達をやってたほうが不思議なぐらいだよ」
「九電さんはアイツのこと、どう思ってるんですか?」
「オレ? まぁいいヤツだとは思うよ。東京の営業所とじゃこっちのやり方は全然違うはずなのに、自分から馴染もうと努力してるし、人当たりもいいしな」
「ふーん、九電さんもアイツの虜ってわけか」
「はぁ?」
「最近、美砂さんもなーんか仕事楽しそうなんだよな。百田に仕事の話持って行くときはやけにニコニコしてるし、俺とじゃ全然対応違いますよ。九電さんもそう思いません?」
「いいじゃねぇか。ニコニコしてるんだったら。オレからすればお前が百田を嫌いな理由のほうがわかんねぇよ」
そう、全く以ってわからん。
百田は分け隔てなく人と付き合っているみたいに見えるから、斉藤にだけしかめっ面をしているというわけではない。
偉そうな話し方もしてないし、正社員とアルバイトの違いがあるというのに、斉藤のことを目上の人ときちんと認識しているようだ。
可愛がってやれよ、と思う。
「まぁいいですよ。どうせ俺は正社員ってわけじゃないし、いずれは辞めていく運命なんだから。業務よりも自分の成功を目指して頑張りますよ」
「なぁ、前から気になってたんだけど、お前の言うその『成功』ってなんなの? 何の話?」
「今は秘密です」
「生意気な野郎だな、こいつ」
オレはふざけて斉藤の頭をぐりぐりしてみたが、斉藤は笑うでもなく、真面目そのものな表情をしていた。
かえってやりにくい。本当どうしたんだ、こいつ。
「うまくいったら教えてあげますよ。絵に描いた餅って言うでしょ? 成功もしないうちから夢を語るのはバカらしいというか、子供っぽい気がするんですよ」
「お前、マジで何かヤバいことやってない?」
「ヤバくなんかないですよ。警察に見つかったら逮捕とかそういう関係のことじゃないんで」
「気になるな。気になるぞ。気になる。気になる。気になる」
「好きなだけ気にしといてください。俺はそろそろ午後からの配達に行きます。百田さんと仲良くやってください。それじゃ」
わけがわからん。
このあいだから斉藤のヤツ、なんか変だぞ?
何をやっているのか見当もつかないが、どうしようもなくなる前に止めるべきでは?
気にはなるものの、仕事以上に大切なものがある、という点でいえばオレもそうだ。
斉藤と話し込んでいて時間を気にしていなかったが、そろそろ後場が始まっている頃合だ。
前場は地味な下落で、キツイ一日になりそうだと思っていた。
少しぐらいの戻しが来ているかな、と携帯を取り出して画面を見たら凍りついた。
株が、オレの株が、オレの寄り付きで買った銘柄たちが、とんでもないことになっている。
全銘柄-3%超え!
昨日の海外市場を見て嫌な予感はしていた。
地合いに反応しやすい主力株をメインに買っていたから、明日は地獄かも、と予想はしていた。
しかし、まさかの全銘柄大幅マイナス。
内需関連の銘柄ぐらい多少の下げで許してくれたらいいのに、と思うものの、まさかの全銘柄大幅マイナスだった。
売り持ちの下げは?
売り持ちのほうはどうなったの?
もっと下げててオレを助けてくれたりはしないの?
期待と不安が入り混じる中、信用取引の画面を見た。
画面に表示される景色。
そこに広がるは地獄絵図。
混沌そのもの、悪魔の咀嚼が聞こえてくるようだった。
前場は地合いに合わせてゆるい下落を見せていた銘柄たちが、飛び上がって上昇している。
個別にニュースを見ると「自社株買いを好感」だとか「どこぞの企業と提携して業務拡大の期待age」とか、何かしらの好材料が書かれている。
よりにもよってオレの売った銘柄に対してのみ直撃の好材料。
買い持ちの銘柄は海外市場の下落の影響でいいとこなし。
死ぬ、このままでは死ぬ。
何とかしなくては、何とか。
オレは大急ぎで注文を出しまくる。
株で勝つ極意は順張り、下げた銘柄を売り、上げた銘柄を買うべきなのだ。
すっかりドテン状態となったオレのポジション。
せめて前場の負けを少しぐらい、ほんの少しでもいいから戻してくれればとオレは願う。
助けてください、株神様。
株神様……。
夜半の空に薄くかかった雲。
両手を合わせて拝んでも、神様からオレの姿は見えないんじゃないかと思わせる黒い雲。
あの隙間から流れ星が流れて「かね、カネ、金!」と三回願えば、今日のオレの失態を許してくれたりはしないだろうか。
オレは死人になった気持ちで、乗り場に駆けてくる無機質な電車を待っていた。
期待した後場の動きは、まるでダメだった。
株式市場はオレの期待を嘲笑うかのように底値ヨコヨコを続けていた。
買い持ちから空売りにと転向した銘柄は悉くヨコヨコ。
逆に空売りから買い持ちに転向した銘柄は、後場の高寄りを打ち消すかのような下落。
結局後場寄りまでに大損、その後は多少の損、といいことなどまるでない一日だった。
何のやる気も起こらない。
もしかしたら明日以降は、オレのとったポジションが正しく動き、損した分を利益にしていってくれるのかもしれないが、現時点で携帯に表示されている緑の羅列を見れば、高揚などするはずがない。
もしかしたら明日以降は、今日以上の損をするかもしれない。
ドテンなんかしなきゃよかったと、昼休みに大慌てで行った注文の山を後悔することになるかもしれない。
この前もアミが言っていた。
「九電さんって、正社員なんでしょ? お金あるんでしょ? 将来安泰なんでしょ? なのに、なんで株なんかやるの?」
確かにその通りだ。
オレはなんで株なんかやっているんだろう。
仕事は嫌々ながらも、吐き気がするほどやめたくなるような日はない。
毎日毎日同じことの繰り返しだとは言っても、逆に言えばオレを深く苦しめるような出来事が起きるというわけでもないのだ。
株なんかやらなければよかった。
会社で稼ぐ給料で十分生活できるというのに、わざわざ危険を冒してあぶく銭を欲しがるなんて、オレはなんてバカなことをやっているんだ。
今までいくら損してきた?
株を始めて一年ぐらいのオレは、今日までどれだけの稼ぎを株に捧げてきた?
思い返すのも嫌なくらいだ。
収支を見るのも嫌、新しくつけるのはもっと嫌。
何やってんだろう、オレ。
最悪だ、最悪……。
そんなことを考えていたからか、オレは自宅最寄のいつもの駅で降りようと思っていたのに、一つ手前の駅で下車していた。
ここに来て、行きたくなるような場所といえば一つしかない。
オレはふらふらとアミの店を目指していた。
「いらっしゃい。また来てくれたんだ、九電さん!」
曇りなく笑うアミの顔。
オレの来店を心から喜んでくれるアミの笑顔。
少し気分が落ち着く。
オレは案内された席に座った。
「どうしたの? 九電さん。元気なさそうだけど、何か嫌なことでもあったの?」
「ああ、株で、その少し……」
オレにとってネット上の付き合いを除けば、身近な人でオレの株の話を聞いてくれる人といえばアミしかいなかった。
株をやっていることを人に知られたいとは思わない。
勝っているならまだしも、大損しているなんて職場の人たちに知られればバカにされること請け合いだ。
しかしアミなら、オレの話を喜んで聞いてくれる。
今日は株で負けたんだ、と言っても、そんな日もあるよ、頑張ろう、と言って慰めてくれる。
別にオレは慰めて欲しいからアミに会いに来たわけじゃない。
自業自得で損をしているんだから、アミにどうこうして欲しいというわけじゃない。
ただ話を聞いて欲しかった。
今のオレの苦しみをどこかに吐き出したかった。
しかし、そんなつもりで店に来たというのに、アミの心配そうな顔を見ると、オレは途端に自分がもの凄く情けない存在のように思えて、いつもみたいに言葉が出てこない。
一回り近い年下のアミに自ら進んで格好悪い話をするなんて、惨めだ。
最初の煙草に火をつけた後は、黙って下を向いていた。
アミが顔を寄せる。
「九電さん? 大丈夫? かなり顔色悪いけど」
「得意なヤツ作ってよ。今はそれが飲みたい」
「わかった」
シャカシャカとカクテルを作る音が響く。
株で大きく損したことを忘れることはできないが、アミがオレに入れてくれるカクテルは、何かアミの元気をオレに分けてくれているような気がして、嬉しかった。
「今日は全然話さないね。九電さん、いつも自分の話をよくしてくれるのに」
「ごめん、今日はそんな気分じゃなくて」
「そっか、話したくなかったらいいよ。それじゃあ今日は私が話をしてあげよっか?」
「アミちゃんの話?」
「うん、九電さんって、なんていうのかな、頭良さそうな感じだから、私も頭よく見られたいなって思ってさ。このあいだ、店長さんにちょっと相談してみたんだよ」
「相談って、もしかして株のこと?」
「うん。九電さん、シュレディンガーの猫って知ってる?」
「聞いたことぐらいはあるよ。猫を外から見えない箱に入れて、毒ガスを入れてって話でしょ?」
「そう、それ。あれってさ、本来は量子力学っていう難しい学問の話みたいなんだけど、このあいだ九電さんが言ってた株の話に近いところがあるかなー、って何となく思ったの」
「近いってなにが?」
「シュレディンガーの猫は、毒ガスを入れた後、猫が生きているのか死んでいるのかわからないっていうところがミソなんだって。毒ガスなんか入れたら死んじゃうに決まってるじゃない? でもまだ誰もその様子を見たわけじゃないから『猫は半分生きていて、半分死んでいる』っていうわけのわからない状態になっちゃうってわけ」
「それは知ってる。変な話だね」
「九電さん、株は丁半博打だって言ったじゃん? 株は上がるか下がるかの二つに一つしかないから、上がる確率は50%、下がる確率も50%だって」
「ああ、そう言ったね」
「じゃあこの猫の話もそう思うの? 猫は生きているか死んでいるかの二つに一つしかないよ? だから毒ガスを入れた後の猫も、50%の確率で生きているって思うの?」
「…………」
「50%って凄い確率じゃない? 普通に考えれば、生きていることのほうが奇跡的なぐらいだと思う。でも『わからないから半分の確率で』っていうのがこの話なのよ? 九電さんの言う丁半博打と似てると思わない?」
「ちょっとわからなくなってきた」
「本当? 私、今頭よく見られてる?」
「えっと、もう一声ってところかな」
「あー、言ってくれるじゃん。そしたらここからは私のオリジナル。例え変えてみようよ」
アミはカクテルを作るとき以上に得意そうな顔をしている。
いつもならオレが得意になる話を聞いてくれているだけなのに、今日のアミはいつもと違う気がした。
「100階建てのビルがあります。その屋上から、なんということでしょう、人が飛び降りようとしています。屋上に集まった人たちは『やめろ』『早まったことをするな』と野次を飛ばしています。でも残念。その人は大きくジャンプしてビルの屋上から飛び降りてしまったのです。呆気にとられて見守る人たち。誰もが『飛び降りた人は死んだ』と思うことでしょう。しかし、その中にとても変わった人がいたのです。一部始終を見ていた九電さんは『飛び降りた人が死んだとは限らない。50%の確率で生きている』と言うのです」
「…………」
「もう一声かな?」
アミがオレの顔色を伺う。
オレはアミの言おうとしていることが何となくわかってきたような気がする。
しかしなんと言っていいやらわからず、またアミの話し出す様を見ていた。
「2階建てのアパートがあります。上階に住んでいるのは、元気で体力もある九電さんです。洗濯物を干していたとき、なんということでしょう、ちょっと足が滑って下に落ちてしまいました。でも人の状態は『生きているのか死んでいるのか』のどちらかしかありません。九電さんは、ああ、可愛そう、50%の確率で死んでしまうのです」
「…………」
「私、昔住んでたアパートでこれと同じことやったことあるよ。あはは、バカよね。風で洗濯物が飛んだとき、手を伸ばせば届くかなって思って、そのまま下に落ちちゃったの。足骨折したかな、痛かったよ。でもほら、今では元気元気。50%の確率で助かっちゃった。でもね。その隣に70歳だか80歳だかのお婆ちゃんが独りで住んでたのよ。私だったから骨折で済んだけど、もしお婆ちゃんが落ちちゃってたらどうだったかな。私に起きた幸運の50%がお婆ちゃんにも起きてくれたかなー?」
「わかったよ、アミちゃん」
「本当? 私、今頭よく見られてる?」
「うん、見られてる見られてる」
「やったー! 九電さんに勝っちゃったー!」
凄く喜ぶアミ。
対してオレは、何か奇妙な感覚を味わっていた。
シュレディンガーの猫、100階建てのビルからの自殺、2階建てのアパートからの転落。
アミが唐突に持ち出した三つの例えは、オレに「もしかしたら株は丁半博打じゃないのかもしれない」という考えを植えつけた。
毒ガスを入れられた猫は、確かに生きているかもしれない。
しかしそれは、箱に入れられる前の健康な状態ではなく、弱り果て、今にも死んでしまいそうな状態で生きているのかもしれない。
100階建てのビルから飛び降りた人は、まず死ぬだろう。
しかしたとえば強風に煽られて一つか二つ下の階層に放り投げられて、奇跡的に一命を取り留めているかもしれない。
2階建てのアパートから転落した人は、まず生きてはいるだろう。
しかし足を骨折するか、腕を骨折するか、偶然擦り傷だけで済むかなどの怪我は、落ちた人の健康状態や体力、または落ちた状況によって一変する。
当然打ち所が悪く死んでしまう場合もあるものの『50%の確率で』というのは無理がある。
「アミちゃん」
「なに?」
「このあいだ、身近な人がFXやってるって言ってたじゃん?」
「うん」
「その人にさっきの話、してみた?」
「ううん、まだしてないよ」
「してあげたら? きっとその人も、アミちゃんが頭いい人だってわかると思う」
「本当? うわー、九電さんにそんなこと言われたら自信ついちゃうなー!」
「オレは逆に自信がなくなってきたけどね」
「えっ?」
オレは席を立って上着を羽織る。
こんなに早く店を出たいと思ったのは初めてかもしれない。
店長を呼んで「お勘定を」というオレを見て、アミは驚いた顔をする。
「どうしたの九電さん。まだ九時だよ? 電車まだあるのに」
「いや、今日は帰るよ。面白い話してくれてありがとう。なんか目が覚めた気がする」
「え、ああ、うん。でもまた来てくれるよね?」
「たぶんね」
FXをやっている身近な人って誰なんだろう。
オレはその人が気になった。
「株やめたら?」と言ってきた後にこんな話を持ってくるアミだ。
きっとギャンブルをやろうとする人はよく思っていないに違いない。
オレはアミにとって客の立場だから強くは言われないし、気分よくオレが話しているあいだは楽しそうに相槌を打ってくれたりするものの、心の中ではどう思われているんだろうか。
オレは今日、株で負けた以上に打ちのめされた気がして、帰るなりすぐ床に倒れこんだ。
掲示板を見たり、収支をつけたりする予定が全てどうでもよくなって、そのまま眠り込んだ。
引継ぎ、というか江坂さんの担当区域の情報共有のために営業所に顔を出す日もあるが、配達要員としての数には入れられていないというところか。
あの送別会の日から二日後の月曜日、東京の営業所から二十代前半の男性がうちに転勤して来た。
百田と名乗ったその男性は、まだ勤務暦一年半程度の新米だが、大学卒で、採用されるなりいきなり厳しい都会の営業所に配属となったためか、物覚えがよく、体力もあり、熟練の江坂さんをはるかに上回る仕事量をこなしていた。
とはいえ、まだまだ勤めて間もない新人だ。それに若者でもある。
長年同じ営業所で配達をやっている人たちからすれば、いかに仕事ができようとも生意気なヤツは嫌われる。
しかし百田はその辺の業界事情もよく心得ていて、アルバイトの斉藤や美砂にまで敬語で話している様は多くの同僚に好印象を与えていた。
美砂が「百田君の歓迎会をやろう!」と騒いでいたが、引越し作業の関係で主役は当分忙しいという。
うちの営業所は管理職以外の歓送会は、職場をあげてはしないので、まぁ主役となる人物の人間性次第ではなかったりすることもある。
しかし「一ヶ月ぐらい先なら大丈夫だよね?」と美砂が食い下がっている様は、百田が入って早々嫌われるタイプでないことを意味していた。
オレも百田のことは嫌いじゃなかった。
「気に入らないヤツですね、あの新人」
しかし斉藤はどうも違うようだった。
屋上の喫煙所で肩を並べて、百田の話題が上るたび斉藤は嫌な顔をする。
「生意気ですよ。権力のありそうな人に媚売っちゃったりしてさ。江坂さんがずっといてくれたほうがよかったのに」
「そうは言ってももう歳だろ、江坂さん。定年ギリギリまで現役で配達をやってたほうが不思議なぐらいだよ」
「九電さんはアイツのこと、どう思ってるんですか?」
「オレ? まぁいいヤツだとは思うよ。東京の営業所とじゃこっちのやり方は全然違うはずなのに、自分から馴染もうと努力してるし、人当たりもいいしな」
「ふーん、九電さんもアイツの虜ってわけか」
「はぁ?」
「最近、美砂さんもなーんか仕事楽しそうなんだよな。百田に仕事の話持って行くときはやけにニコニコしてるし、俺とじゃ全然対応違いますよ。九電さんもそう思いません?」
「いいじゃねぇか。ニコニコしてるんだったら。オレからすればお前が百田を嫌いな理由のほうがわかんねぇよ」
そう、全く以ってわからん。
百田は分け隔てなく人と付き合っているみたいに見えるから、斉藤にだけしかめっ面をしているというわけではない。
偉そうな話し方もしてないし、正社員とアルバイトの違いがあるというのに、斉藤のことを目上の人ときちんと認識しているようだ。
可愛がってやれよ、と思う。
「まぁいいですよ。どうせ俺は正社員ってわけじゃないし、いずれは辞めていく運命なんだから。業務よりも自分の成功を目指して頑張りますよ」
「なぁ、前から気になってたんだけど、お前の言うその『成功』ってなんなの? 何の話?」
「今は秘密です」
「生意気な野郎だな、こいつ」
オレはふざけて斉藤の頭をぐりぐりしてみたが、斉藤は笑うでもなく、真面目そのものな表情をしていた。
かえってやりにくい。本当どうしたんだ、こいつ。
「うまくいったら教えてあげますよ。絵に描いた餅って言うでしょ? 成功もしないうちから夢を語るのはバカらしいというか、子供っぽい気がするんですよ」
「お前、マジで何かヤバいことやってない?」
「ヤバくなんかないですよ。警察に見つかったら逮捕とかそういう関係のことじゃないんで」
「気になるな。気になるぞ。気になる。気になる。気になる」
「好きなだけ気にしといてください。俺はそろそろ午後からの配達に行きます。百田さんと仲良くやってください。それじゃ」
わけがわからん。
このあいだから斉藤のヤツ、なんか変だぞ?
何をやっているのか見当もつかないが、どうしようもなくなる前に止めるべきでは?
気にはなるものの、仕事以上に大切なものがある、という点でいえばオレもそうだ。
斉藤と話し込んでいて時間を気にしていなかったが、そろそろ後場が始まっている頃合だ。
前場は地味な下落で、キツイ一日になりそうだと思っていた。
少しぐらいの戻しが来ているかな、と携帯を取り出して画面を見たら凍りついた。
株が、オレの株が、オレの寄り付きで買った銘柄たちが、とんでもないことになっている。
全銘柄-3%超え!
昨日の海外市場を見て嫌な予感はしていた。
地合いに反応しやすい主力株をメインに買っていたから、明日は地獄かも、と予想はしていた。
しかし、まさかの全銘柄大幅マイナス。
内需関連の銘柄ぐらい多少の下げで許してくれたらいいのに、と思うものの、まさかの全銘柄大幅マイナスだった。
売り持ちの下げは?
売り持ちのほうはどうなったの?
もっと下げててオレを助けてくれたりはしないの?
期待と不安が入り混じる中、信用取引の画面を見た。
画面に表示される景色。
そこに広がるは地獄絵図。
混沌そのもの、悪魔の咀嚼が聞こえてくるようだった。
前場は地合いに合わせてゆるい下落を見せていた銘柄たちが、飛び上がって上昇している。
個別にニュースを見ると「自社株買いを好感」だとか「どこぞの企業と提携して業務拡大の期待age」とか、何かしらの好材料が書かれている。
よりにもよってオレの売った銘柄に対してのみ直撃の好材料。
買い持ちの銘柄は海外市場の下落の影響でいいとこなし。
死ぬ、このままでは死ぬ。
何とかしなくては、何とか。
オレは大急ぎで注文を出しまくる。
株で勝つ極意は順張り、下げた銘柄を売り、上げた銘柄を買うべきなのだ。
すっかりドテン状態となったオレのポジション。
せめて前場の負けを少しぐらい、ほんの少しでもいいから戻してくれればとオレは願う。
助けてください、株神様。
株神様……。
夜半の空に薄くかかった雲。
両手を合わせて拝んでも、神様からオレの姿は見えないんじゃないかと思わせる黒い雲。
あの隙間から流れ星が流れて「かね、カネ、金!」と三回願えば、今日のオレの失態を許してくれたりはしないだろうか。
オレは死人になった気持ちで、乗り場に駆けてくる無機質な電車を待っていた。
期待した後場の動きは、まるでダメだった。
株式市場はオレの期待を嘲笑うかのように底値ヨコヨコを続けていた。
買い持ちから空売りにと転向した銘柄は悉くヨコヨコ。
逆に空売りから買い持ちに転向した銘柄は、後場の高寄りを打ち消すかのような下落。
結局後場寄りまでに大損、その後は多少の損、といいことなどまるでない一日だった。
何のやる気も起こらない。
もしかしたら明日以降は、オレのとったポジションが正しく動き、損した分を利益にしていってくれるのかもしれないが、現時点で携帯に表示されている緑の羅列を見れば、高揚などするはずがない。
もしかしたら明日以降は、今日以上の損をするかもしれない。
ドテンなんかしなきゃよかったと、昼休みに大慌てで行った注文の山を後悔することになるかもしれない。
この前もアミが言っていた。
「九電さんって、正社員なんでしょ? お金あるんでしょ? 将来安泰なんでしょ? なのに、なんで株なんかやるの?」
確かにその通りだ。
オレはなんで株なんかやっているんだろう。
仕事は嫌々ながらも、吐き気がするほどやめたくなるような日はない。
毎日毎日同じことの繰り返しだとは言っても、逆に言えばオレを深く苦しめるような出来事が起きるというわけでもないのだ。
株なんかやらなければよかった。
会社で稼ぐ給料で十分生活できるというのに、わざわざ危険を冒してあぶく銭を欲しがるなんて、オレはなんてバカなことをやっているんだ。
今までいくら損してきた?
株を始めて一年ぐらいのオレは、今日までどれだけの稼ぎを株に捧げてきた?
思い返すのも嫌なくらいだ。
収支を見るのも嫌、新しくつけるのはもっと嫌。
何やってんだろう、オレ。
最悪だ、最悪……。
そんなことを考えていたからか、オレは自宅最寄のいつもの駅で降りようと思っていたのに、一つ手前の駅で下車していた。
ここに来て、行きたくなるような場所といえば一つしかない。
オレはふらふらとアミの店を目指していた。
「いらっしゃい。また来てくれたんだ、九電さん!」
曇りなく笑うアミの顔。
オレの来店を心から喜んでくれるアミの笑顔。
少し気分が落ち着く。
オレは案内された席に座った。
「どうしたの? 九電さん。元気なさそうだけど、何か嫌なことでもあったの?」
「ああ、株で、その少し……」
オレにとってネット上の付き合いを除けば、身近な人でオレの株の話を聞いてくれる人といえばアミしかいなかった。
株をやっていることを人に知られたいとは思わない。
勝っているならまだしも、大損しているなんて職場の人たちに知られればバカにされること請け合いだ。
しかしアミなら、オレの話を喜んで聞いてくれる。
今日は株で負けたんだ、と言っても、そんな日もあるよ、頑張ろう、と言って慰めてくれる。
別にオレは慰めて欲しいからアミに会いに来たわけじゃない。
自業自得で損をしているんだから、アミにどうこうして欲しいというわけじゃない。
ただ話を聞いて欲しかった。
今のオレの苦しみをどこかに吐き出したかった。
しかし、そんなつもりで店に来たというのに、アミの心配そうな顔を見ると、オレは途端に自分がもの凄く情けない存在のように思えて、いつもみたいに言葉が出てこない。
一回り近い年下のアミに自ら進んで格好悪い話をするなんて、惨めだ。
最初の煙草に火をつけた後は、黙って下を向いていた。
アミが顔を寄せる。
「九電さん? 大丈夫? かなり顔色悪いけど」
「得意なヤツ作ってよ。今はそれが飲みたい」
「わかった」
シャカシャカとカクテルを作る音が響く。
株で大きく損したことを忘れることはできないが、アミがオレに入れてくれるカクテルは、何かアミの元気をオレに分けてくれているような気がして、嬉しかった。
「今日は全然話さないね。九電さん、いつも自分の話をよくしてくれるのに」
「ごめん、今日はそんな気分じゃなくて」
「そっか、話したくなかったらいいよ。それじゃあ今日は私が話をしてあげよっか?」
「アミちゃんの話?」
「うん、九電さんって、なんていうのかな、頭良さそうな感じだから、私も頭よく見られたいなって思ってさ。このあいだ、店長さんにちょっと相談してみたんだよ」
「相談って、もしかして株のこと?」
「うん。九電さん、シュレディンガーの猫って知ってる?」
「聞いたことぐらいはあるよ。猫を外から見えない箱に入れて、毒ガスを入れてって話でしょ?」
「そう、それ。あれってさ、本来は量子力学っていう難しい学問の話みたいなんだけど、このあいだ九電さんが言ってた株の話に近いところがあるかなー、って何となく思ったの」
「近いってなにが?」
「シュレディンガーの猫は、毒ガスを入れた後、猫が生きているのか死んでいるのかわからないっていうところがミソなんだって。毒ガスなんか入れたら死んじゃうに決まってるじゃない? でもまだ誰もその様子を見たわけじゃないから『猫は半分生きていて、半分死んでいる』っていうわけのわからない状態になっちゃうってわけ」
「それは知ってる。変な話だね」
「九電さん、株は丁半博打だって言ったじゃん? 株は上がるか下がるかの二つに一つしかないから、上がる確率は50%、下がる確率も50%だって」
「ああ、そう言ったね」
「じゃあこの猫の話もそう思うの? 猫は生きているか死んでいるかの二つに一つしかないよ? だから毒ガスを入れた後の猫も、50%の確率で生きているって思うの?」
「…………」
「50%って凄い確率じゃない? 普通に考えれば、生きていることのほうが奇跡的なぐらいだと思う。でも『わからないから半分の確率で』っていうのがこの話なのよ? 九電さんの言う丁半博打と似てると思わない?」
「ちょっとわからなくなってきた」
「本当? 私、今頭よく見られてる?」
「えっと、もう一声ってところかな」
「あー、言ってくれるじゃん。そしたらここからは私のオリジナル。例え変えてみようよ」
アミはカクテルを作るとき以上に得意そうな顔をしている。
いつもならオレが得意になる話を聞いてくれているだけなのに、今日のアミはいつもと違う気がした。
「100階建てのビルがあります。その屋上から、なんということでしょう、人が飛び降りようとしています。屋上に集まった人たちは『やめろ』『早まったことをするな』と野次を飛ばしています。でも残念。その人は大きくジャンプしてビルの屋上から飛び降りてしまったのです。呆気にとられて見守る人たち。誰もが『飛び降りた人は死んだ』と思うことでしょう。しかし、その中にとても変わった人がいたのです。一部始終を見ていた九電さんは『飛び降りた人が死んだとは限らない。50%の確率で生きている』と言うのです」
「…………」
「もう一声かな?」
アミがオレの顔色を伺う。
オレはアミの言おうとしていることが何となくわかってきたような気がする。
しかしなんと言っていいやらわからず、またアミの話し出す様を見ていた。
「2階建てのアパートがあります。上階に住んでいるのは、元気で体力もある九電さんです。洗濯物を干していたとき、なんということでしょう、ちょっと足が滑って下に落ちてしまいました。でも人の状態は『生きているのか死んでいるのか』のどちらかしかありません。九電さんは、ああ、可愛そう、50%の確率で死んでしまうのです」
「…………」
「私、昔住んでたアパートでこれと同じことやったことあるよ。あはは、バカよね。風で洗濯物が飛んだとき、手を伸ばせば届くかなって思って、そのまま下に落ちちゃったの。足骨折したかな、痛かったよ。でもほら、今では元気元気。50%の確率で助かっちゃった。でもね。その隣に70歳だか80歳だかのお婆ちゃんが独りで住んでたのよ。私だったから骨折で済んだけど、もしお婆ちゃんが落ちちゃってたらどうだったかな。私に起きた幸運の50%がお婆ちゃんにも起きてくれたかなー?」
「わかったよ、アミちゃん」
「本当? 私、今頭よく見られてる?」
「うん、見られてる見られてる」
「やったー! 九電さんに勝っちゃったー!」
凄く喜ぶアミ。
対してオレは、何か奇妙な感覚を味わっていた。
シュレディンガーの猫、100階建てのビルからの自殺、2階建てのアパートからの転落。
アミが唐突に持ち出した三つの例えは、オレに「もしかしたら株は丁半博打じゃないのかもしれない」という考えを植えつけた。
毒ガスを入れられた猫は、確かに生きているかもしれない。
しかしそれは、箱に入れられる前の健康な状態ではなく、弱り果て、今にも死んでしまいそうな状態で生きているのかもしれない。
100階建てのビルから飛び降りた人は、まず死ぬだろう。
しかしたとえば強風に煽られて一つか二つ下の階層に放り投げられて、奇跡的に一命を取り留めているかもしれない。
2階建てのアパートから転落した人は、まず生きてはいるだろう。
しかし足を骨折するか、腕を骨折するか、偶然擦り傷だけで済むかなどの怪我は、落ちた人の健康状態や体力、または落ちた状況によって一変する。
当然打ち所が悪く死んでしまう場合もあるものの『50%の確率で』というのは無理がある。
「アミちゃん」
「なに?」
「このあいだ、身近な人がFXやってるって言ってたじゃん?」
「うん」
「その人にさっきの話、してみた?」
「ううん、まだしてないよ」
「してあげたら? きっとその人も、アミちゃんが頭いい人だってわかると思う」
「本当? うわー、九電さんにそんなこと言われたら自信ついちゃうなー!」
「オレは逆に自信がなくなってきたけどね」
「えっ?」
オレは席を立って上着を羽織る。
こんなに早く店を出たいと思ったのは初めてかもしれない。
店長を呼んで「お勘定を」というオレを見て、アミは驚いた顔をする。
「どうしたの九電さん。まだ九時だよ? 電車まだあるのに」
「いや、今日は帰るよ。面白い話してくれてありがとう。なんか目が覚めた気がする」
「え、ああ、うん。でもまた来てくれるよね?」
「たぶんね」
FXをやっている身近な人って誰なんだろう。
オレはその人が気になった。
「株やめたら?」と言ってきた後にこんな話を持ってくるアミだ。
きっとギャンブルをやろうとする人はよく思っていないに違いない。
オレはアミにとって客の立場だから強くは言われないし、気分よくオレが話しているあいだは楽しそうに相槌を打ってくれたりするものの、心の中ではどう思われているんだろうか。
オレは今日、株で負けた以上に打ちのめされた気がして、帰るなりすぐ床に倒れこんだ。
掲示板を見たり、収支をつけたりする予定が全てどうでもよくなって、そのまま眠り込んだ。
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