株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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7/17(火)
7月11日、朝八時四十分。
オレは今日も職場に来ている。
シークレットコメントを読んだ日はあれだけ憂鬱だったというのに、社会人というヤツは毎日毎日飽きもせず会社に通う習慣を体に刻み込まれているらしい。
正直配達なんぞをしている暇があったら、あれが誰からのものなのか虱潰しに探したい気分だ。
しかしそんなオレの心持ちとは裏腹に、職場の面々は誰も彼もがいつもと同じ雰囲気で、オレに対して特別何かしらを思っている風ではなかった。
オレが普段関わりを持つ人間といえば、職場の人間か配達でよく行く客先かのどちらかぐらいしかないというのに、あのコメントが誰からのものなのか見当もつかない。
「斉藤さん、遅いですね。そろそろ始業時刻なのに」
オレより三十分も早く出勤してきた百田が腕を組んでいる。
百田の出勤が早いのは、何も運びやすい荷物を今のうちに選別しておいたほうが後々楽、という暗黙の裏技を理解しているからではなかった。
新入社員は古参の社員より早く来て当然、という今時古いとも言える考えを根深く持っているからのようだった。
東京の営業所ではそれが普通だったのか、それとも百田が真面目なのか、オレには判断がつかない。
「一応斉藤さんの配達先の荷物、分けて置いてあげたほうがいいですかね。僕、自分の分は準備完了してますので」
百田のスペースを見ると、誰もが嫌がりそうな大荷物が山のように積まれている。
オレでも行けないことはないが、株価を見ている暇はないぐらい走り回らなければいけない程度の量であることはまず間違いない。
人より遅く出勤してきて残り物を仕方なく積んでいた江坂さんの代わりが百田だとするならば、かなりの戦力アップのように思えた。
「お前、毎日頑張るな。人一倍仕事してるんじゃねぇの?」
「え? そんなの当然じゃないですか。僕は新参ですし、皆さんにはまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるんですから。早く終わらせて余裕を作りたいんです、僕」
オレが新参で入ってきたとき、こんなだったかな。
早く手を抜く方法を覚えて楽をしようとしか思っていなかった気がする。
随分年下だってのに、立派なもんだよ、百田は。
「おはよう、九電君」
いつもの寝ぼけ頭で美砂がやって来た。
朝、こいつがやって来るとろくなことがない。
確か以前もオレの休み明けの日に、斉藤が起こしたクレームがどうとかでやりたくもない指導をさせられたんだった。
「斉藤君のことなんだけどさ。今日は欠勤したいんだって」
「はぁ?」
「なんか風邪みたいよ。朝一で電話してきて、すみませんけどって」
「じゃあ代わりは?」
「うん、さっきから今日休みの人に電話してるけど、全然繋がらないの。半分は携帯切ってて、半分はコール中で」
やってくれるな、斉藤のヤツ。
まぁそれがオレの休日の話なら、オレが呼び出されていた可能性も大なわけで、それを思えば出勤日でよかったと考えられなくもないが……。
「斉藤さん、休みですか」
「そうらしいな、困った」
「僕、斉藤さんの分も配達行きますよ。地図に赤丸でもつけてくれれば」
「ばーか、お前がいくら頑張ったところで二人分もいけるわけねぇだろ。時間指定もあるのに」
「それじゃどうするんですか」
「美砂、しょうがないから、管理者に言ってくれ。それしかない」
「……わかった」
結局、営業所の面々全員で斉藤の穴を埋めることになった。
管理者の人間は、江坂さんも言っていたように過去に配達員の経験を持つ者が多いため、配達地域に詳しい担当者に場所や注意事項を聞くと、難なく配達業務をこなしていた。
もっとも、場慣れしているオレたちとは違うから、どうしても補助要員的な扱いとなってしまうが、それでも人手があれば時間指定の荷物ぐらいは遅れずに配れる。
今日中とだけ約束している荷物の大半は、オレたちメインの配達員が引き受け、何とか営業所内の荷物を一通り配達することができた。
しかし、斉藤は次の日も、その次の日も出勤してこなかった。
最初のうちは「風邪が長引いて」と毎日電話をしてきたが、欠勤が一週間ほどになると、斉藤からの電話はなく、営業所の管理者から直接電話をするようになっていた。
それでも斉藤は来なかった。
管理者から漏れ聞いた話によると、電話にも出ないらしい。
美砂を始めとするコールセンターの面々は、暇を見ては斉藤に電話し続けているみたいだが、一向に繋がる様子はなかった。
7月17日、つまり今日、オレも何度か電話してみたが、結果は同じだった。
「斉藤君、どうしたのかな」
屋上で独り、昼休憩を過ごしているオレのところに美砂が来た。
いつもならオレと並んで斉藤がいて、愚痴の一つも言い合っているというのに、寂しい雰囲気だ。
百田は昼休憩を返上して配達先を走り回っているし、このところオレはいつも独りだった。
「何かあったのかな。九電君、何か知らない?」
「知ってたらオレからの電話には出るだろ」
「そうだよね」
「このままだと斉藤はクビか?」
「一応、新しいアルバイトの募集はかけるって上が言ってた」
「…………」
「江坂さんが辞めて、斉藤君が辞めたら……。なんかどんどん寂しくなるね。でも九電君は辞めたりしないよね?」
「辞めなくても転勤はありえるぞ。オレは正社員だからな」
「そっか」
「オレ、今日斉藤の家に行ってみるよ。辞めるなら辞めるではっきりさせよう。今みたいな宙ぶらりんの状態が続くと、大変なのはオレたち配達員だからな」
「じゃあ私も行く」
「オレ独りで行くよ。確信はないけど、心当たりが一つある」
「え? やっぱり何か知ってるの?」
斉藤が言っていた。
正社員なんか諦めて、成功がどうとかって。
詳しい話は聞かなかったが、斉藤が出勤してこないことに関係がありそうだ。
尋ねるのは一般的には非常識な時間になりそうだが、どうせあいつは同棲中の彼女がいるだけの独り暮らしだ。
それにもし斉藤が不在でも彼女がいれば何か知っているに違いない。
斉藤の自宅は、オレが借りているのと同じような二階建てのアパートの一室だった。
オレの家からひと駅離れた隣町で、近場といえば近場にある。
思えば仕事帰りにはよく飲みに誘ったものの、自宅まで直接行くのは初めてだ。
何かの拍子に大体の場所とアパートの名前だけ聞いて知っていたから、交番で道を聞いてわざわざ探しに来たのだった。
とはいえ問題のアパートまで辿りつけても、肝心の部屋番号がわからない。
一回りしてみたが、一軒家と違って表札はないし、電話をしても出ないだろうし、オレは途方に暮れた。
しかしそこは日頃配達員をやっている者の勘というか、オレはあることを閃いた。
オレは集合ポストが設置されている場所に行き、一つ一つ中を覗いて見た。
独り暮らしの多いアパートは、ご丁寧に鍵までかけているところは少ないから、ほとんどのポストの中が無断で覗けるというわけだ。
103号室のポストの中に家電量販店のダイレクトメールが入っていた。
宛名を見ると、見間違えようもなく斉藤の名前が書いてある。
なるほど、103号室だ。オレはドアの前まで行き、ドアを叩いた。
最初の何回かは無反応だった。
新聞の勧誘だとかの類はおそらくこの時点で不在と考えて諦めるだろう。
しかしそこは日頃配達員をやっている者の勘というか、オレはあることを閃いた。
オレはドアの隣のくりぬきのある箇所を見た。
そこで部屋ごとに設置されている電気メーターを見つける。
しばらく観察しているとメーターが回っていることに気がついた。
つまり部屋の中では電気が動いているというわけだ。
まぁ空調をつけっぱなしで仕事に行く、というポカはオレもやらかしたことがあるから確実ではないが、普通外出するとき、電気を食いそうなものは一通り消していくものだ。
となれば、電気メーターが働いている今は居留守の可能盛大。
オレはさらにドアを叩きまくる。
こうなれば根競べもいいところだが、夜中ともいえる時間帯にドアを叩きまくっているヤツがいれば近所迷惑もいいところだ。
最終的に迷惑を被るのは住んでいる側となるので、この勝負はオレに有利だったようだ。
ドアを叩き始めて五分は経ったであろうとき、ようやく中の者が顔を出した。
「え?」
一瞬、部屋を間違えたのかと思った。
たとえばダイレクトメールを配達した郵便屋が隣のポストと間違えただとか、そういうイレギュラーな事態が起こってオレの判断を狂わせたのかと思った。
ドアから現れたのは、オレが普段株の話を気持ちよくするために通っているバーのアミだったのだ。
「九電さん? なんで? え? どういうこと?」
「っていうか、こっちが聞きたいよ。ここ斉藤の部屋だよね。なんでアミちゃんが」
「斉藤って? ああ、龍君か。ああ、そういえば配達員って。ああ、そうか、そうか」
なにやら納得してアミが中へ引っ込んだ。
ドアが閉められ、部屋の中でちょっと聞き苦しい罵詈雑言のようなやり取りがなされている。
わけがわからず経ち呆けているオレの前で、またドアが開いた。
「ごめん、ごめん。まさかそんなことになってるとは思わなくて。仕事で来たんだよね?」
「そうだけど。中に誰かいるの?」
「龍君でしょ? いるよ。さっきから居留守使えってずっと」
「アミちゃん、斉藤とどういう関係なの?」
「どういうって……。あはは、まずいところで会っちゃったな」
「もしかして彼女?」
「えっと。まぁ今のところはそんな感じかな、今のところは」
アミが答えづらそうに下を向く。
オレはなんと言ってよいやらわからず、嫌な間が空く。
黙って突っ立っていると、アミが靴を履き出した。
「龍君、最近ちょっとおかしいの。私、席外すから何とか言ってやってよ。ごめんね、本当」
アミは逃げるようにして走っていく。
オレは呆然とその背中を見送った。
アミが斉藤の彼女。
しかも同棲までしている。
内心嫉妬していた斉藤の彼女の存在。
それがよりにもよって、あのアミだった。
別にアミは、オレにとって何でもない。
ただの飲み屋の女の子に過ぎない。
ちょっと可愛くて、話をしていてちょっと楽しいだけの相手に過ぎない。
好きだとか付き合いたいとか、そういうのじゃないはずだ。
なのに、この言葉にできない感情はなんだ。
胸に穴が開いた気分とはこういうことを言うのか。
ドアを閉めて、部屋の中まで数歩程度の距離だというのに、オレはなぜか歩くのが辛かった。
仕事の話をしようと、辞めるなら辞めるではっきりしろと、斉藤にそう言おうと思っていただけなのに。
オレは、オレは。
「お疲れ様です、九電さん」
斉藤はオレのほうを見もせずにそう言った。
部屋の中はガラスの食器が割れて、テーブルがひっくり返り、衣服が散乱していて、壮絶な散らかり具合だった。
斉藤の頬が腫れている。
アミにやられたのかと想像がついた。
どれだけ全力で叩けばあれだけ赤くなるのか。
部屋の様子も手伝って、オレはここでの惨状を察した。
「九電さん、女と同棲したことあります? なかったら絶対やめたほうがいいですよ。女は外向きは可愛く見えても、一緒に住んだらとんでもないんです。乱暴ですよ。こんなになるまで俺を叩くんだから。でも褒めてくださいよ。俺、あいつに手、挙げてませんから。顔綺麗だったでしょ? あいつ、一応客商売やってるから、俺は気遣ってんですよ。なのに、あいつはまるで加減なし。酷いですよね」
斉藤は部屋のパソコンを見ていた。
それを見て、オレは驚いた。
何も聞かずとも何があったのか想像できた。
パソコンに映っていたのは、オレも見慣れた赤と緑のロウソク足のチャートだったから。
知らないソフトの画面だから、ひと目でどうなっているのかはわからない。
しかし斉藤の様子から、オレが普段株でやっている以上の大損を記録していることは間違いなかった。
「九電さん。これ、FXって言うんですよ。知ってるでしょ? 結構話題になったから」
「お前まさか、前に言ってた成功がどうしたってのは」
「ええ、これですよ。一日で一億稼いだって人もいるんです。その人は別に経済学者でもなければ、優れた投資家ってわけでもないんです。ただの普通の主婦、サラリーマン、学生。そんな人が一瞬で億万長者になったっていうんですよ。だったら俺にもできるかなって」
「バカ野郎、それはうまくいったほんの一握りのヤツの話だろ。一日で何百万も負けて借金地獄って話もあるぐらいなのに」
「そうですね、本当そうです。今になって思いますよ。俺は甘かったんだなって」
「まさか仕事に来なくなったのもこれが理由か?」
「……はい、俺が配達しているあいだも為替が上下しているんだって思うと、仕事に集中できなくて。だってそうじゃないですか。俺が必死に一日で何千円稼いでも、こっちで何十万も損してたら全く意味なんてない。最悪仕事はクビになってもよかったんですよ。こっちで成功できれば、普段仕事で稼ぐ金なんてたかがしれてますから」
「いつからやってるんだ、FX」
「二ヶ月ぐらい前からです。最初はよかったんですよ。信じられないでしょうけど、最初は勝てたんです。それでこのまんま行けば働かずに済むかなって。でもダメでしたね。この様ですよ。はは、はははは」
斉藤がどれくらい負けたのか。
それは聞かずともわかっていた。
画面に表示されている金額の桁は、オレが普段動かしている金の何十倍もある。
散らかった部屋のあちこちにも破り捨てられた消費者金融の請求書が散乱している。
この状態でまともな精神状態を保っているのだとしたら、そっちのほうが異常だろう。
斉藤の空笑いは、オレが普段ブログでやっている以上に深刻な様子に見えた。
「九電さん、俺ね。あいつと結婚しようと思ってたんですよ」
斉藤の発言がオレの心に突き刺さる。
嫌でもアミの可愛らしい笑顔が浮かぶ。
「あいつもアルバイトですけど、俺よりが給料いいんですよ。一緒に住むとなれば、どうしても金の話が出るんです。俺、あいつより稼ぎがよくないからいつも遠慮させられるんですよ。男としてこんなの耐えられないっていうか、ことあるごとに悔しくなるんですよ。これから先もずっとこうなんだと思うと、嫌になって。だから俺、一発当ててやろうと」
「…………」
「最初、あいつには黙ってたんです。失敗したらこうなるって俺もわかってましたから。でもついこのあいだ、そこの請求書を見られてバレたんですよ。喧嘩になりましたよ。でもそのときは今みたいに大きく損しているわけじゃないから何とか説明して納得させたんです。投資とギャンブルは違うんだって。まぁあいつも別に投資には詳しくないし、もしかしたら儲かるかもしれないと思ってたのかもしれませんね。うまくいけば何の文句もないでしょうから。でも結局この様ですよ」
「お前、これからどうするつもりだ。仕事辞めるのか」
斉藤はオレの質問に一呼吸してから答えた。
「はい。すみません。これだけ毎日何十万と動かしている日々が続くと、もう一日何千円なんてアルバイトはする気になれないです」
「だったらどうするんだ。他の仕事を探すのか」
「いえ、もう少しこっちで頑張るつもりです。まだ何とかやれるだけの金はありますから」
「なんだと?」
「九電さん、俺は円を売ってドルを買ってるんですよ。つまり円安が進行すれば俺は儲かるんです。よく言われてますよね。今は円高で日本は景気低迷だって。でもほらここ、見てください。今年の2月と3月のチャートです。売られてきた円が急激に買い戻されたんですよ。流れが変わった証拠です。だから俺はそっちに投資することにしたんです。でもここを見てください。ここ数日、円高に動いていますよね。それで損しているわけなんですけど、俺はこんなの一時的な現象に過ぎないと思っています。だから明日から、いや来週からかもしれませんけど、円安に戻ります。そうなったら大儲けなんですよ。今までの損を取り戻せるんです」
「斉藤、悪いことは言わない。今すぐやめろ。そんで職場に来い。管理者に頭を下げろ」
「ダメですよ、もう」
「ダメじゃない。今は人手が足りなくて管理者までトラックに乗っている始末だ。お前が来れば解決する。来るかもわからないアルバイトを募集する必要もない」
「言ったでしょ。もうそんな気にはなれないんです、俺」
「斉藤!」
「九電さん、すみません。本当、九電さんには迷惑かけたと思ってます。でもどうにもならないんです。投資って分野は、一度始めたら抜け出せないんです。俺が買い戻した後、すぐに売りが入ったらどうしようとかずっと考えてしまうんです。だから二つに一つなんです。俺が億万長者になるか、それとも」
斉藤の表情は、とても億万長者になれるかもしれないと目を輝かせている風ではなかった。
自分自身で言うとおり、後には引けない、だからやるしかないというような、何かしらの強迫観念に駆られているだけに見えた。
しかしオレはこれ以上なにを言えばいいのかわからない。
オレも株を始めたばかりの頃は、周りの言うことなんて聞かなかった。
いや聞いてはいたし、理解してもいたが、納得して言うとおりにする気にはなれなかった。
今の斉藤も、過去のオレと同じ気がする。
周りが口うるさく言ったところで聞く耳持たないのだ。
斉藤は力なくオレに帰ってくれるように言った。
オレは斉藤に「辞めるのなら辞めるとはっきりして欲しい」と言いに来たのだから、目的は達成されたと言っていいだろう。
しかし腑に落ちない。
確かに斉藤の言うとおり今後は円安方向に進んで、大儲けという可能性もあるにはあるが、仮にそこで儲かったとしてもまた損をするときがやってきて、今みたいな死んだ目でチャートを見続ける日々が戻ってくるような気がした。
斉藤の言うことは、かつてオレが考えていたことと同じだ。
オレも株を始めたばかりの頃は無茶な金額を注ぎ込んで大損したものだが、それでも退場まで追い込まれなかったことはオレにとって幸運だったのかもしれない。
オレは、斉藤もそうなるようにと願うぐらいしかできなかった。
7/18(水)
昨日は斉藤にあんなことを言ったが、本質的にはオレも同じようなものだ。
仕事をする気になれないのも同じ、株価が常に気になるのも同じだ。
ギリシャの総選挙以降、円高方向に動いているのはオレも知っている。
それによる日本株の下落相場が来ていることも知っている。
毎日携帯の画面で見ているのだから、知らないわけがない。
しかしここ最近、リアルでの問題が立て続けに起きていたから、いまいち株について真剣になれていないオレがいる。
ちょっと前のオレなら少し損をするたびに大声を上げていたものだが、今のオレは落ち着いたものだ。
多少の損は戻すだろうと、たかをくくっている、というのが日常だった。
しかし今日は、とてもそんな程度で割り切れるような損ではなかった。
このところ負けが込んでいたのと、昨日のショックがあったからだろう。
長い間禁忌としていたある種の銘柄に、ついに参入してしまったのだ。
怖い怖いと言いながらも日々の動きだけは見続けていたある種の銘柄。
もしここに投じていたのならこれくらいの儲けが出ていたのか、と皮算用しながら静観し続けたある種の銘柄。
突如として起こる暴騰、暴落。
誰も見向きしなかった状態からマグマのように吹き上がる壮絶な出来高。
ああ、これを買っていれば、と何度も夢見たランキング上位の仕手株たち。
あろうことかオレはそのうちの一つにかなりの規模の買いを仕掛けてしまっていたのだ。
信用取引がこれほど恐ろしいと思ったことはない。
ボタン一つでスイっと買ってしまえる環境がこれほど恐ろしいと思ったことはない。
斉藤のことを他人事とは思えなかった。
オレは初めて見る追証発生の画面に戸惑いを隠せなかった。
仕事中、配達するのも忘れて食い入るように画面を見ていた。
このまま進むと強制決済される、でも資金を追加すればとりあえず当面は凌げる。
そういう状態だった。
オレはトラックの中で独り震えていた。
とりあえず追証さえ何とかできれば助かる可能性はある。
損したところで全てを手仕舞いするのは大損する第一歩だ。
これは今までの経験からも明らかなこと。
何とか決済されずに済む方法を考えるべきだ。
営業所に戻り、屋上に向かう。
追証は、発生した日に金を入れなければならない、というわけではない。
携帯にも表示されている通り3営業日以内、と猶予が与えられている。
そのあいだに何とかできれば、なかったことにできる。
しかし投資用の資金はすでに全額を証券口座に入れている。
技術が身に付くまでは、と一部の資金を定期預金にしていたのは過去のことだ。
月末まで凌げば給料が入るが、株価がこの勢いで推移するとなると、そんなものを待っている余裕はない。
どうすればいいというのか。
オレは斉藤の部屋にあった消費者金融の請求書を思い出した。
それと同時に頭を振って思い描いた空想を打ち消す。
ダメだダメだ。
オレは斉藤と違って株はギャンブルだと割り切っている。
ギャンブルに負けたから借金して挽回を図ろうなんて大バカもいいとこ。
人生で絶対にやるべきではないことの一つだ。
しかしそうなると、強制決済か。
いや、それもダメだ。
仮に損するにしてもどれくらい損をするのかで後々の展開が変わってくる。
浅めの傷で済むのならそれでよし。
最悪なのは、一番悪いところで強制決済されてしまうことなんだ。
こうなれば仕方がない。
オレは株をやる前に決めた自分の取り決め、つまり「投資資産と生活資金は完全に区別すること」という制約に手をつけることを考えた。
オレは貯蓄のほとんどを投資資産として利用しているが、生活資金として用意している銀行口座にはいくらかの余力が残されている。
つまり給料日が来るまでの生活費をちょっと拝借して緊急回避、という作戦が取れるというわけだ。
今日の段階なら数万も入れれば凌げる。
そして凌げれば損を戻していくであろうときが訪れる。
そしてそのときが来れば、追証を回避するために差し入れた金を元の銀行口座へと戻せる。
なかなか良い作戦だ。
これなら誰に金を借りることなく急場を凌げる。
早い話が、自分から金を借りて、自分に返済するわけだ。
自分さえよければどこにも迷惑はかからない。
斉藤のような転落はありえない。
これでいい、これでいこう。
「九電君! 九電君って!」
株のことを考えながらぼんやり煙草を吸っていたオレは、美砂がオレの肩を揺すってくるまで隣に美砂がいたことに気がつかなかった。
我ながら考え事に熱中しているときというのは恐ろしい。
これがもしトラックを運転している最中だったりしたら、いつ何時交通事故に遭ってもおかしくないといったところだ。
「さっきから呼んでるのになんで無視してんの。いい加減にしないと怒るよ」
「別に無視してたわけじゃねぇよ。気がつかなかっただけ」
「嘘つけ。どうせまたろくでもないことを、とか何とか思ってたんでしょ。最近の九電君って、私が話しかけるといっつも嫌そうな顔するし」
そりゃまぁ配達員とコールセンターの関係だからな。
仕事に関する話でオレが喜べた試しなんて今までに一度もないし、美砂のほうから声をかけてくることなんて十中八九仕事に関する話なんだから、だんだん気が沈んでくるのも当然だろう。
「斉藤君のことだけどさ」
仕事に関する話、ではなかったか。
微妙に関係する話ではあるけれども。
「今朝、電話があったんだって。コールセンターにじゃなくて、管理者に直接。それで七月いっぱいで退職するから雇用期間の延長はしないでくださいって」
「そうかよ。それがどうかしたのか」
「どうかしたって。斉藤君、辞めるって言ってるんだよ? 何とも思わないの?」
「思うよ。次のアルバイトが来るまで大変だな」
「違うって! そうじゃないって! 引きとめようとか説得しようとか、そういうのはないの?」
「もうやったよ。でもダメだった。やる気がないんだってよ。どうしようもない」
「九電君!」
美砂が怒鳴る。
屋上の喫煙所には他の配達員もいるというのに、よくもまぁそんな大声を出せるもんだ。
斉藤の件については、オレは何も関係ないのに、美砂はオレを責めるような口調で話している。
斉藤が辞めるのはオレのせいとでも言いたげな様子だった。
「なんでそんなに冷めてるの。斉藤君が辞めても困らないって言うの?」
「困るって言ってるだろ。穴が空いた分、誰が配達行くと思ってるんだ」
「だから違うよ! 九電君と斉藤君、あんなに仲良かったじゃない。毎日毎日ここで煙草吸っててさ。仕事終わったらときどき飲みに行っててさ。九電君にとって斉藤君は、ただのアルバイトの配達員じゃなかったでしょ? 代わりが来るとか来ないとか、そういうんじゃないよ」
「うっとうしいな、本当にお前は」
「えっ」
「どっかのドラマで聞いたような台詞を次から次へと。アルバイトが辞めていくのは普通のことだろうが。斉藤以外にもいただろう。辞めていったヤツは」
「九電君!」
「そろそろ行くわ。アイツの分も配達しないといけないしな」
美砂がまだ何か言っている。
しかしオレは聞こえない振りをして屋上を降りていった。
何も知らないくせに。
普段から口うるさい美砂だが、今日のアイツにはなぜか腹が立った。
オレには斉藤の気持ちがわかるつもりでいる。
FXと株では違うのかもしれないが、投資、いやギャンブルという分野に嵌った者の末路というのは知っているつもりだ。
成功だとか失敗だとか、儲けだとか損だとかはもはや関係ない。
斉藤の言っていた通りなんだ。
もし自分が足を洗ったあと、自分に有利な方向に動いたらどうしようか。
自分が決済した箇所が、最悪の場所だったらどうしようか。
日夜チャートを見ながらそのことしか考えられない。
日頃稼ぐ金の何倍もの金額がほんの数秒で上下する。
この分野で成功すれば、他には何も要らない。仕事も要らない。
逆に失敗すれば、他に何を手に入れたって無駄。仕事なんてしたって無駄。
美砂にはそのことがわからない。
江坂さんが辞めたときもそうだった。
未練がましく「また飲みに行きましょう」だなんて。
未来のお局様らしい考え方じゃないか。
仕事が大好き、職場が大好き。
そこで築く人間関係が大好き。
そういう仕事に関するしがらみが大好きなんだ、アイツは。
オレや斉藤は違う。
与えられた仕事に楽しみを見出すことなんてしない。
嫌々させられる仕事を懸命にこなそうなんて思わない。
渋々付き合う人たちとの関係を大事にしようとなんて思わないんだ。
美砂はたとえばここに一生働かなくたって済むくらいの大金が積まれていたとしても、足しげく職場に通う毎日を送るだろう。
だからたとえ一攫千金のチャンスが目の前に転がっていたとしても、そこに飛びついたりはしない。
アルバイトしてもらえる安い賃金に満足して、身分相応の毎日を送るのがアイツだ。
わかるはずがない。
オレや斉藤の考えなんて。
ATMで金を引き出した。
生活費として用意している金を、決められた日以外に引き出すのは初めての経験だ。
しかしその金は、ほんの数秒ほどのあいだに、証券会社の口座へと飲み込まれていく。
追証を回避するために。
一時的にセーフティを保つために。
20時を過ぎた今も百田は配達先を走り回っている。
一足先に営業所を出たオレは、百田に多少の負い目を感じたが、仕事より大事なことがあるんだからしょうがない。
携帯で見る赤い画面が元通りになった様子を見て、オレは胸を撫で下ろした。
昼間、美砂が噛み付いてきた斉藤のことが気にならないわけではない。
仕事を続けようが辞めようがアイツの自由だとは思うが、生活費の前借でピンチを補填できている今のオレと、消費者金融を回りに回ってようやく用意した金で勝負している斉藤とは、根本からして違う。
うまくいけば万々歳だが、もし失敗したら、今更なかったことにはできない。
それが斉藤の立場だ。
オレはもう一度斉藤のアパートを訪ねてみるつもりで隣の駅で降りた。
しかしアパートの前まで来たとき、オレは掲示板でボロカスに言われていた自分の有様を思い出した。
負けているときに聞かされる罵詈雑言。
だからお前はダメなんだと、何の根拠もなしに吐き散らかされる暴言の数々。
その辛さは誰よりもオレが知っている。
いや、見ず知らずの他人が書き殴った苦言ならまだしも、知り合いの、しかもリアルで毎日顔を突き合わせていた人間から聞かされる言葉は、オレが味わったもの以上に辛く苦しいものになる気がする。
ドアを叩こうと思ったとき、踏みとどまった。
オレはともかく、斉藤はきっとオレと会いたくはないだろう。
今日、為替がどうなったのかはオレも株ツールで見たが、斉藤がとっているであろうポジションが有利に動いたとはとても思えない。
となると、斉藤は今日も損をしている。
初めて追証に追い込まれたオレよりもずっと大きな金額を損している。
まさかとは思うが、自殺なんて。
ありえないと言えそうもないところが怖かった。
オレは斉藤のアパートを訪ねる代わりに、商店街のほうへ向かった。
斉藤の彼女に会いに行くためだった。
「あ、いらっしゃい、九電さん」
オレを迎え入れたアミは、どう贔屓目に見ても元気があるようには見えなかった。
オレが大損した話をいくらしたところで、心配はしてくれても持ち前の明るさを失わなかったアミが、今日はもの凄く落ち込んでいるように見えた。
「昨日はごめんね。変なとこ見せちゃって。気分悪くした?」
「いや、別に」
「座ってよ。いつものヤツ出すから」
カクテルの準備をしようと棚に向かうアミは足取りもおぼつかないぐらいフラフラした様子だった。
バーテンダーが「代わろうか?」と声をかけるものの、アミは気丈に「私のお客さんだから」と作業を続ける。
事情を知っているだけに、見ていて痛々しかった。
考えてみれば、オレはアミの本当の名前すら知らない。
ただ可愛いな、って思っただけ。
話していて楽しいな、って思っただけ。
アミはいつもオレの話を楽しそうに聞いてくれたが、アミが本当の意味で自分の話をすることは今まで一度もなかった。
結局オレとアミの関係は、常連のお客さんとそれを持て成すバーの店員どまり。
斉藤と暮らすアミが普段どんな顔をして、どんな思いで毎日を過ごしているのか。
オレには想像することもできなかった。
「斉藤のことだけどさ」
「え? ああ、うん」
「仕事辞めるって言ってきたよ、今日。一応止めたんだけどね」
「そっか、辞めるのか。せっかく頑張ってたのにね」
「実は辞めるってのは正確じゃないんだ。七月末にアイツの雇用期間が切れるんだけど、そこからの期間延長を拒否するって形になってる。だから今説得すれば、何とかなるかもしれない」
「…………」
「アミちゃん、説得してよ。オレからも言ってみたけど、聞かないんだ。でもアミちゃん、斉藤と付き合ってるんだしさ。アミちゃんから言えばアイツも」
「ダメよ、きっと」
「なんで? 言ってみたの?」
「ううん。仕事辞めるってのも今初めて聞いた」
「だったらさ」
「九電さん、一本もらっていい?」
アミが会話を強引に打ち切って、灰皿を持ってきた。
今日までのアミはずっとオレの隣に座って話相手になってくれるだけで、酒は飲まなかった。
煙草を吸うんだ、ということも、今の今まで知らなかった。
「私、龍君とは三年前に知り合ったの。高校卒業してすぐだったかな。このバーで働き始めたぐらいのときに軟派されたんだよ。あろうことかこの店で」
「……うん」
「龍君しつこかったんだ。毎日毎日お店に来てね。家が近いからって閉店までずっといるんだよ。私が休みだって知ったらすぐ帰っちゃったりしてね。私を狙ってるんだな、ってたぶん誰が見てもそう見えたと思う。あんまりしつこいから店長さんが、アミちゃんが嫌なら出禁にしようか? って言ってくれたんだけど、あのとき私についてくれるお客さんって龍君しかいなかったからさ。仕事だと思って割り切ってやってたの。三十回は告白されたかな。月に一回ぐらいはプレゼントももらった。正直困ってたんだけど、二十歳のときに、家を追い出されてね。定職にもつかずにこんなバイトして、って親に散々嫌なこと言われたんだ。それで住む家がなくなっちゃったからさ。どうしようかなって思ってたときに龍君が、家来る? って言ってくれて。そのまんま今に至るって感じなんだ」
「…………」
「龍君、自分のことばっかりなんだよ。お世話になってる私が言うのも変だけどさ。全然私のこととか、先のこととか考えてくれないの。だけど、なんでかな。龍君がFXやってるって知って、それでお金借りたりしてるってことを知ったとき、なんでかな。殴っちゃったんだよね、思いっきり。あはは、おかしいよね。確かに住む家がなくなったら困るけどさ。別にそこまで好きでもない人が何してたっていいのにね。なんか、自分でもよくわからないんだけど、もの凄く頭に来て。その上、仕事まで辞めるなんて、本当、あんなヤツ……」
アミが泣く。
目の周りから落ちた化粧が顔を汚していく。
手で拭いても次々に涙が出てきて、手まで汚れていく。
「ごめんね、ごめん。なんで私、こんなこと。九電さん、お客さんなのに」
「アミちゃん、斉藤のこと好きなんだよ、きっと」
「え?」
「好きでもない男の家に転がり込んだりしないって、普通」
「な、何言ってんの。好きじゃないよ。あんなヤツのこと。彼氏募集中って書いてあったでしょ? 私の名刺に」
「書いてあったね。オレ、ちょっと期待してたけど」
「そうなんだ。じゃあ九電さん、私と付き合ってよ。九電さん彼女いないんでしょ? 今独り暮らしなんでしょ? だったら付き合ってよ。私、今日から九電さんの家に」
「ダメ」
「なんでよ」
「オレ、斉藤ほどアミちゃんのこと好きじゃないから」
「期待してたって言ったじゃん!」
「それは、過去の話」
「嘘つき! 九電さんなんて嫌い!」
「ああ、嫌いで結構だ。帰るよ。お会計」
「うわあああああああああああ!!!!」
アミは泣きながら目いっぱいオレを叩いた。
他の客が何事かとオレたちを見る中、バーテンダーがアミを止めてくれる。
アミはしきりに「嘘つき! 嘘つき!」とオレを非難する。
オレは、もう何も言わずに店を出た。
本当言うと、こういう予感があるにはあった。
斉藤がFXをやってるって聞いた日、二人の様子を見て、たぶんうまくいっていないだろうなとオレは思った。
アミの付き合っている相手が斉藤でなければ、オレは今頃有頂天だったかもしれない。
斉藤を説得してくれ、なんて言いながらも、傷心しているであろうアミと話せばもしかしたら、なんて。
男である以上、こういう可能性を考えなかったわけじゃない。
それに斉藤はもう仕事を辞めるわけで、オレと会うこともなくなるだろう。
妙な三角関係になって、面倒なことに巻き込まれることもないだろう。
アミは斉藤に愛想をつかして、オレのところに来た、というだけの話だ。
それを思えばオレは単にチャンスをみすみす逃したようなもの。
なんであのとき黙って頷かなかった、と後悔する日が来るかもしれない。
でもどうしてもそんな気になれなかった。
泣いているアミを見たとき、ここにいるべきなのはオレじゃないという気がしてしまったのだ。
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