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株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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7/20(金)
 
朝起きてからずっと頭が痛い。
 
昨日は帰ってくるなりわけがわからんほど酒を飲んだ。
なんだろうな、初の追証を経験して株価の動きが心配というのもあるんだろうが、それ以上に美砂のことが気になって仕方がなかった。
でもなんで今更美砂のことなんて。
 
見合いがどうのと言っていたのは、確かにショックではある。
でもそれは美砂だからというより、身近な誰かがという意味でのショックだ。
百田はまだ付き合いが浅いから、プライベートな話を深く聞いたところで関心は薄いのかもしれないが、たとえば数年同じ職場で配達員をやっている誰かが昨日聞いたような話をしてきたら、少なからずショックを受けるだろう。
 
だってそうじゃないか。
見合いで遠くに行くなんてことになったら、営業所からはまた人員が減ることになる。
今でさえ業務運行に支障が出ているというのに、この流れに拍車がかかることになる。
 
当然しわ寄せはオレにも来るだろう。
斉藤の穴を埋めるだけで手一杯だというのに、これ以上何かあってみろ。
いかに死力を尽くしてやったとしても、てんてこ舞いのてんてこ舞いでどうにもならなくなることは必至。
 
オレは単にそれを心配しているだけだ。
 
美砂はコールセンターの人間とはいえ、一応営業所の人員の一人には数えられている。
トラックで荷物を配達することはないが、業務を円滑に進めるために一役買っていることは間違いない。
以前の斉藤の一件のように、管理者に持っていくと処分は免れないようなクレームも、自分で対応できる範囲なら融通を利かせてうまくやってくれる。
それが美砂というお局様候補だ。
 
オレだって美砂に助けられたことはある。
 
荷物に貼付されている時間指定を見落としていて、午前希望のものを夕方に持っていってしまった一件。
あのときは仕方なく不在票を夕方の時間帯で切ることになってしまったわけだが、客からついたクレームを美砂が一時間近くも謝ってくれたおかげで事なきを得た。
当然、まぁ昼飯ぐらいは奢らされたわけだが、管理者にネチネチ言われるよりは何倍もマシだ。
「私に感謝しろよ」だなんて美砂は調子に乗っていたが、助かったことは事実なのでオレは何も言えずに、まずい昼飯を一緒に食っていた。
その美砂が、抜けるかもしれないと思うと、今後厳しくなりそうなのは想像に難くない。
 
ああ、困るな。
これは確かに困る。
 
美砂がどうこうじゃない。
いや、美砂がどうこうなのか。
 
コールセンターの代わりはどうせアルバイトだから、募集をかければすぐに来そうなものだが、美砂ぐらい機転を利かせてうまい対応をしてくれる人が来るとは限らない。
面倒な案件をそのまんま上に放り投げられるなんてマネをされたら、やりにくくなることはまず間違いない。
 
そう、これだ。
使える人員がいなくなるかもしれないというのが困るだけなんだ、オレは。
 
「九電さん? 大丈夫ですか。顔色悪いですよ」
 
朝も早い時間から百田に心配されるとは情けない。
昨日しこたま飲んで二日酔い状態だから、相当白くなっていそうだな、オレ。
 
「大丈夫だ、大丈夫。それより美砂を知らないか? 今日は出勤のはずだけど」
「え? 今日の美砂さんは、午後からの出勤じゃありませんでしたっけ?」
 
そうだったか。
最近は朝の出発前に何かしらの面倒話を持ってくるから、てっきり今日も午前出勤なのかと思っていた。
 
というか、この時間帯に何か言ってくるのなんて美砂ぐらいのものだからな。
配達員が忙しく準備している中、無遠慮に寝癖つきの頭で話しかけてくるのなんてアイツぐらいだ。
 
しかし来なかったら来なかったで、なんか気になるな。
いや、出勤の都合上、こういう日もあるし、特別なことじゃないはずなんだが、何となく。
どうかしてるか、今日のオレ。
 
 
 
今日は業務量からいって、特別忙しくないのが幸いした。
トラックの中では気がついたら株ツールを見るようにしていて、追証が差し入れた金の範囲で済むのかどうか、逐一チェックしていた。
 
しかし、もうこれはどうにもならんね。
裏目裏目というか、戻していく気配がまるでない。
よりにもよってオレの選んだ銘柄に限って悪いほうへ動いていく。
インデックスが上げ下げしている以上にオレの損が膨らみ、いよいよ退場か、みたいな嫌な想像が頭をちらつく。
 
しかし耐えるべきか、ここは。
元より追証に対して金を差し入れた時点で粘る覚悟はつけたようなもの。
オレの資金が底をつくより早く、株価が戻していくほうにかけているわけだ。
 
見たってしょうがない。
ここでヒヨってドテンなんてしようものなら、それこそヤツらの思う壺。
単に損するならまだしも、往復ビンタで余計に負けるなんて、最悪も最悪。
それだけは絶対に避けたい未来だ。
 
とはいえ、こんなことをしていて何になる。
オレは何のために株なんかやっているんだ。
 
昨日、美砂の財布を見たとき、オレは何を思った?
あの大金を見て、借りたいと思ったか?
あれでもっとでかい勝負ができるなんてこと、思ったか?
 
いやいや、思わない。
全く以って思わなかった。
 
オレは一攫千金を夢見る斉藤とは違う。
大儲けして仕事を辞めてやろうとか、そんなことは考えていない。
 
じゃあオレは……。
何のために株なんかやっているんだ。
 
「退屈、だったからかな」
 
セブンイレブンの駐車場にトラックを止めて、オレは誰にともなく呟いた。
 
退屈だったから。
実のところこれが一番しっくり来る。
 
今まで競馬もパチンコもやってこなかったオレにとって、世界中の投資家が躍起になって見る株価の動きは魅力的過ぎた。
男子校に三年通った健康な男子が、初めて女子の手を握ったときの感動、みたいなものかな。
全く関わってこなかった知らない分野の中で、もっとも規模の大きい世界を知っただけのこと。
刺激のない毎日の中で、少し楽しみにできたり不安になれたりする何かが欲しかっただけのこと。
だからオレは株なんて……。
 
自嘲気味に一人で笑った。
 
退屈しのぎにストレスを溜めているんじゃ世話はない。
これで儲かっているならまだしも、大損して、アルバイトの美砂に「金を貸そうか?」とか言われてるなんて、とんだバカ野郎だよ、オレは。
 
 
 
午後の配達が終わって、20時過ぎ。
ここ最近を振り返る中じゃ早く終わったほうなんじゃないかと。
ロッカーで着替えている配達員の面々も和気藹々とした雰囲気だ。
いつもみたいに疲れきって、ひと言も発さず、黙々と帰り支度をする様を思えば、今日みたいな日が続けばな、と思うのも致し方なしといったところ。
 
オレは屋上に行って、携帯の画面を眺めていた。
 
普段と変わらない緑一色の銘柄たち。
掲示板のほうは相変わらず敗者たちの絶叫で溢れ返っていて、下手なヤツはどんな相場でも負け続けるんだな、というごく当たり前の現象をオレに思い出させる。
 
オレが株を始めたのは去年の8月だった。
あとひと月もすれば、株暦一年となり、感慨深い気持ちにもなる。
 
社員一年目といえば、結構な苦労もした。
入ったばかりの頃は右も左もわからずに周りに迷惑をかけ続けたが、一年を通して経験してきたことというのは、何にも増してオレの血となり肉となっている。
 
どんな仕事でもそういうものだろう。
最初の一年というのは、今後の仕事をする上で基盤となる一年だと思う。
 
しかし株についてはどうだ。
色んな人がいるんだろうが、オレにとっての一年目は最悪だった。
 
総資産がプラスとなる一瞬なんて、最初の数日だけだった。
10月に経験した大損、その後の緩やかな戻し、そして今に至るまでの大損。
資産の増減において、今日という日が最悪というのは嫌でも株を始めてしまった後悔にと繋がる。
今更こんなことを考えていても遅いんだろうが、損をするたびにアミや美砂がオレに言った「株、辞めたら?」という言葉が思い出されてしまう。
 
今日こそは、今日こそは、と思い続けて、今日も大損。
挙句の果てに、迫る追証に向けて金を差し出し、さらに粘る覚悟をつけているなんていう始末。
救えねぇな、オレ。
 
考え事をしていたら、結構な時間が経っていた。
オレは屋上から降りて、営業所から外へ出る。
 
駅前のタクシー乗り場まで来たところで美砂を見つけた。
向こうもオレに気がつき、子供みたいに両手を振る。
 
「お疲れー、九電君! 今帰り?」
 
昨日の表情なんてどこ吹く風。
駅に行こうとしていた美砂は、いつも通りの美砂だった。
 
「お前と帰りが一緒になるなんて珍しいな」
「そうだね、ひょっとしたら初めてかもしれないよ?」
「美砂はどこまで乗るんだ?」
「何言ってんの。九電君と同じ駅じゃん」
 
そうだったか。
ああ、でも言われてみれば。
 
美砂とオレは同じ中学の出身で、お互い地元を出ずに一人暮らしをしているわけだから、同じ駅なのは当然か。
今更何を言っているんだ、オレは。
やっぱり今日はおかしい。
 
降りる駅までは五つ程度なので、電車を待っている時間を入れても30分程度のものだ。
しかしオレは隣に美砂がいる時間を現実以上に長く感じていた。
 
美砂は多少世間話のようなものを振ってきたが、大して興味のある話でもない。
オレが適当に相槌を打って聞き流している様子を知ると、次第に口数が減っていく。
オレもオレで何を話していいのかわからず、嫌な沈黙を長時間味わうことになった。
 
「会話のない空気に耐えられる関係が親しい間柄」なんてことを聞いたことがある。
これは確か友情の話だったと思うが、それによるとオレと美砂が友情で結ばれているなんてことはないらしい。
 
こういう沈黙を打ち破るのには勇気が要るものだ。
たぶんそれはお互いが感じていたことだろう。
 
何かしらのきっかけが欲しいなとは思っていたが、自宅の最寄駅に着くまでそれは訪れず、改札を通る瞬間までオレたちは何も話さなかった。
 
駅を出てすぐ、オレたちは同じ方向に歩く。
駅までは自転車で、という通勤の仕方をしている人は結構多いと思うが、オレも美砂も駅周辺に住んでいるせいか、自宅まで徒歩だった。
居づらい雰囲気は思っていたより長く続いた。
 
職場で誰彼構わず無駄話をしている美砂がこんなに長時間黙っているところは初めて見たかもしれない。
何か話せよ、と願ったわけではないが、沈黙を打ち破ったのはやっぱり美砂のほうからだった。
 
「九電君って、どこに住んでるの?」
「そこのアパートだよ。お前は?」
「えっと、そのアパートを過ぎて、二つ信号を越えたところかな」
「近くだな」
「近くだね」
「…………」
「…………」
「なぁ」
 
オレが立ち止まると、美砂は余計に三歩ぐらい歩いてオレを振り返った。
 
「暇だったら、家に来ないか」
 
 
 
「うわぁ、凄い散らかってるじゃん。たまには掃除しなよ」
「お前の部屋は片付いてんのか?」
「ううん、一緒ぐらい」
「だったら言うな」
 
指摘されるほど散らかしているわけではないが、洗濯が面倒で、服を畳むのが面倒で、その辺の衣服が脱ぎっぱなしにされている状態は認めざるを得ない。
しかし使った食器の類が異臭を放つのは嫌なので、食事の後片付けについては割りとこまめにやっているつもりだ。
 
美砂は「こんな部屋に女の子を上げるなんて」とか何とか言いつつ、オレの服を勝手に畳んでは部屋の隅に置いている。
敷いていた布団に寝起きの跡がついていることに文句がないのは、美砂の部屋でも同じ現象が起きているからだろうと勝手に想像した。
 
「おおっ、これがブログでたまに登場する株神様の御神体か!」
「勝手に触るなよ、それなりに高かったんだから」
「アラエッサー、ボエボエー、オレノポジー、モウカレモウカレー」
「何やってんだよ」
「いや、こう言っておけば金運が上昇するのかなって」
「するかアホ。あれはブログに書くからこそ価値があるんだ」
 
ありがたそうに両手で拝む美砂にオレは適当なことを言った。
招き猫の御神体を購入してからのオレの成績を考えれば、アレが金運の上昇に一役買っているとはとても思えない。
毎日拝むより、美砂から小バカにされているほうが実はお似合いなのではないかと思うぐらいだ。
 
オレはお茶でも入れようかと台所に立つ。
美砂は「別にいいよ、気を遣わなくて」と言うが、冷やしていたウーロン茶がなくなりつつあったのでオレはちょうどいい機会のように思っていた。
 
「職場で見る九電君となんか違うね」
「お前、ブログのコメントでもそんなこと書いてたな」
「うん、制服を着てないときの九電君は私にとっては新鮮。毎日顔合わせてるのにね。知らないことばっかりって、なんかおかしいよね」
「知ってるほうがおかしいと思うけどな」
「中学のときさ」
 
ポットを開くとお湯がなかった。
オレは仕方なくやかんに水を入れて火にかける。
 
「九電君、私と同じテニス部だったよね。なんでテニス部に入ったの?」
「言わなかったか。親が運動部に入れってうるさかったんだよ」
「でも野球部とかサッカー部とか陸上部とかあったじゃん」
「その辺は練習がキツそうに見えたからな。あと運動は苦手だったから試合には出たくなかった。テニス部なら玉拾いだけやってれば、所属できるだろ」
「あはは、変な考え」
「お前はどうなんだよ」
「私? 私は頑張ってやってたよ。仲良かった友達がテニス得意だったから」
「でもお前もオレと一緒に玉拾いばっかりやってたよな」
「うー、私が下手だって言いたいの?」
「上手かったらもっと試合に出てるはずだろ」
 
テニス部は男子と女子でコートを分けられていた。
といっても離れているわけではなく、校舎内にある四面のコートを左から順に女子、女子、男子、男子、と割り当てられているだけのものだった。
 
玉拾いといえば、コートの外側に陣取って飛んできた玉を選手に投げ返すのが仕事だ。
オレと美砂は毎日のように同じポジションを取って、同じ仕事を繰り返す日々だった。
 
練習に参加してしごかれるよりは、と進んで玉拾いに興じていたオレと違って、美砂は実力の関係上、主力から外された要員の一人だった。
さすがに三年に上がる頃には、個人試合のいくつかに参加したりはしていたが、美砂が練習で活躍しているシーンをオレは見たことがなかった。
 
「私ね、毎日玉拾いばっかりやってる九電君を見てて、九電君も私と同じ落ちこぼれなんだ、って思ってた」
「まぁ落ちこぼれには違いないな。ろくに練習もしてないオレがテニスの試合で勝てるわけがないし」
「でもなんかさ。九電君はあのときから自分の居場所を知ってて、それを守っているみたいだった」
「ははっ、玉広いが居場所か。最高だな、オレもお前も」
「同じことしてても、私とは全然違うよ。私は自分の居場所が見つけられなかったからお見合いに行くんだ」
 
ポットにやかんの湯を注ごうとしていた手が止まる。
美砂のほうを見ると、美砂は顔を抑えて泣いていた。
 
「九電君、格好いいね。どんなときも自分の世界を持ってる。いつもやりたいことをやってる。仕事だって自分にできることを見つけて正社員になれた。私にはできないよ。私には」
「美砂」
「お見合いなんて行きたくない。独りぼっちになりたくない。ずっとここにいたいよ」
「美砂!」
 
アパートの前で、美砂がオレの誘いに乗ったときから、こういう予感はあった。
いや、予感というなら昨日美砂と屋上で話したときからか。
二日酔いの抜け切らない頭は、本当に思い切った行動をさせるものだ。
美砂の身体がオレの体重で布団の上に沈み込む。
 
「見合いには行くな。お前はコールセンターの仕事をしてろ」
「だけど、私はもう」
「居場所が見つからないなんて嘘だ。江坂さんの送別会も、百田の歓迎会も。お前が仕切らないと始まらないだろ」
「九電く」
 
美砂に覆い被さって口を塞いだ。
カチッと歯が当たる。
 
美砂が身を固くしていたのは最初だけだった。
オレは美砂の全身から力が抜けていくのを感じ取った。
 
「オレのことを軽い男だと思っているか?」
「ううん。でもアミちゃんのほうが可愛いけど、私でいいの?」
「お前はそんなこと言ってるから本気になる男が現れねぇんだよ」
 
オレは今まで面倒なことを避けてきた。
自分独りの時間が好きだったし、誰かを抱くことで束縛されるのが嫌だった。
 
過去に付き合った女もオレから強く求めたことはなかった。
自分に負担にならない範囲というのをよく考えていたように思う。
考えや価値観が合わなかったりして何かを強要されるようなことがあれば、自分から距離を置くようにしていた。
 
相手に合わせるのは、どんなときも苦痛だった。
自分と歩幅の合わない相手は男女を問わず嫌いだった。
オレはどんな場面でもオレでいたかった。
 
死ぬまで変わることのないと思ったこの考えも所詮は理性の表面を飾っていたに過ぎないということか。
欲を持て余す若い頃と違って、いちいち異性に反応したりはしなくなったはずだが、目の前のバカな女に抱く生まれて初めての感情はオレを突き動かすのに十分だった。
 
「九電君、最初からこうするつもりだったんでしょ」
 
オレの腕の中で美砂が悪戯っぽく笑う。
 
「そうやって一時の感情に流されて株をやるから失敗するんだよ?」
「お前は危ない橋を渡ることがなかったから、今日まで売れ残ったんだろうが」
「そうだね。でも私の判断は正しいよ」
 
美砂の手がオレの首にかかる。
 
「15年来の願いが叶う人なんて、なかなかいないもん」
 
美砂が目を閉じたとき涙が流れた。
さっきの美砂は悲しくて泣いていたはずなのに、この瞬間の意味するところは違う気がした。
 
 
 
台所に立つ美砂は「何がいい?」とオレに聞いたところで、食材の乏しさを知ったようだった。
一丁前に料理ができるみたいなことを自慢していたが、材料がなければ何もできまい。
二日に一度はカップラーメンを食べているオレの部屋で、特技を披露できると思ったら大間違いだ。
 
しかしそれでも多少の有り合わせを使って、それなりの作品を仕上げるところはさすがといったところか。
斉藤を飲みに誘う以外で誰かと夕食をとることはまずないので、いつになく新鮮な気持ちだった。
美砂は何が嬉しいのか食事の間中ずっとニコニコしていた。
 
オレのアパートの前で「シャワーぐらいは貸して欲しかったな」と美砂は不満を言う。
普段は寝癖の髪すらろくに整えてこないくせにそんなことを気にするのかとオレはおかしくなった。
美砂は「送るよ」と言ったオレに手を振って夜の道を歩いていく。
今更送り狼も何もないだろうに、とオレは思ったが、美砂の背中が見えなくなる頃には大人しく部屋に引き返していた。
 
 
7/21(土)
 
「九電君、おはよう」
 
百田と一緒に大量の荷物と格闘しているところ、美砂がやって来た。
相変わらず眠そうな目をこすりながら書類の束を抱えている。
昨日台所に立っていた女とは別人のようだ。
 
「寝癖ついてんぞ、アホ」
「朝は時間がないの。そのうち直るよ。外勤じゃないんだからいいでしょ」
「襟が立ってるぞ。あとタイの結び方もおかしい」
「うるさいなー。注意されたら直すってば」
 
注意されないと直さないのか。
というか、今のオレのひと言は注意のうちに入らないのか。
日常生活の中でがさつなのはいいとしても、仕事中もそうだというのは社会人としての自覚が、ってまぁいいか。いつも通りだし。別にオレは関係ないし。
 
美砂は書類を繰って用件を話す。
昨日配達が遅いとクレームを入れてきたオナホの男性が、通販で買ったものを配達するときは事前に携帯に連絡を入れてからにしてくれ、とかいう非常に面倒な要請だった。
別にこれを徹底しないとどうこう、というわけではないが、同じようなことを同じ客にやらかすと、二度目のクレームは最初のものに比べてキツいものになるのが普通だ。
オレは納得いかないながらも渋々了解し、美砂に「その他の配達員にも伝えてくれ」と言っておいた。
 
「あとねー」
「なんだよ、まだ何かあるのか」
「そんな嫌そうに聞かないでよ。面倒な話じゃないから」
「ほう、じゃあ、いつも持ってくる話は面倒な話だと自覚しているわけか」
「百田君」
 
美砂はオレを無視して、熱心に配達準備にかかっている百田に声をかける。
 
「歓迎会なんだけどさ。どこか希望とかある? 焼肉としゃぶしゃぶならいいところ知ってるよ」
 
美砂は朝のこの時間帯が非常に忙しい時間帯であることを理解しているのか。
百田は屈託なく笑う美砂を蔑ろにすることができず、仕事に意識を向けながらも曖昧な返事をしている。
ありがた迷惑だと態度が言っていた。
 
オレが適当に美砂をあしらわなければ百田はいつまで足止めを食っていたんだろうか。
余裕がある日ならともかく、要員の足りていない現状では好意的な物言いも邪魔以外の何物でもなかった。
 
 
 
トラックの中で信号待ちしているとき、着信があった。
このタイミングでとなると、大抵の場合は営業所からで、配達先に関する面倒ごとを聞かされるのが定例だが、オレの予想はいい意味で外れた。
 
「お疲れ様です、九電さん」
 
電話越しに聞く斉藤の声は、一昨日の覇気のない声と違って溌剌としていた。
目の前の信号が青になり、後方のタクシーにニ、三度クラクションを鳴らされたところで、オレは右折し、手近なコンビニの駐車場へと入っていく。
 
斉藤は、今のオレが午前便の時間指定に追われて忙しくしている雰囲気を敏感に感じ取り、用件だけを手短に話した。
FXのことについては何も話さなかったが、あの日、事務に備品を返しに行く際、心変わりしたそうで、管理者に頭を下げたというのだ。
 
斉藤が言うには、職場に来なくなってから今に至るまでは欠勤扱いとなり、給料は出ないものの、雇用契約が切れているわけではないから、週明けから職場復帰できるということらしい。
大手の民間企業ならまずありえない措置だが、営業所が人員不足で困っていることと、アルバイト募集に応募がないことから、管理者も異例の対応をしたということだ。
 
オレはそれを聞いてまず、殴られ損にならなかったことを喜んだ。
正直気は引けていたが、アミに告白された一件を話の種に使ったことが効果的だったらしい。
くだらん惚気話へと脱線しそうになるたびにオレは仕事中であることを強調する。
話の最後に「仕事が終わったら、久々に飲みに行きましょうよ」と誘われた店は、やっぱりアミの店だった。
 
オレが斎藤のアパートを訪ねた日を思い返せば、破局でもおかしくなかった関係だったはずなのに、斎藤の調子を聞いていると元サヤに落ち着いたといった感じか。
それにしてもあれだけオレが語気を荒げて説得してもまるで聞く耳を持たなかった斉藤が、アミの話が出た途端に180度変わるというのは納得がいかない。
オレが本当にアミと付き合うことになっていたら、どうなっていたか。
借りがあるぐらいのレベルでは済まさんぞ、斉藤。
 
 
 
午前便が終わっての休憩中、またも美砂がやって来た。
「何か用事か?」と聞いたら「別にー」と言ってオレの隣に座る。
 
朝の時点では普段どおりに見えたものの、同僚から同僚ではない何かに関係が変わった美砂はオレのことを意識しているのか、口数がいつもより少ない。
もはや時折訪れる沈黙が苦痛だなどとは思わないが、美砂からの話題が尽きかけてきたところを見て、オレは配達中にあった斉藤の電話のことを話してみた。
 
「斉藤君、帰って来るんだー!」
 
オレは職場の元同僚が復帰するぐらいのニュースでここまで喜ぶ女を他に知らない。
業務の都合上、要員が充足することで助かるのは美砂よりオレや百田のはずだが「斉藤君の歓迎会しないとね!」とはしゃぐ美砂は、オレと斉藤が今日アミの店に行く約束をしていることを知ったとき「私も絶対行く!」と言って聞かなかった。
午前から出勤している美砂は、よほどのことがない限り18時頃に営業所を出るわけだが、オレの仕事が終わるまではその辺をぶらついておく、という予定が即座に決まったらしい。
「まぁ勝手にしろよ」とオレは興味のない風を装ったが、これだけ嬉しそうにしているのを見ると「美砂が来るほうが楽しくなるかもな」と思わずにはいられなかった。
 
 
 
アミの店までの道中、美砂と一緒に電車に乗る。
「オレが来るまでの三時間、何をしてたんだ」と聞くと、美砂は「秘密ー」なんて言ってはぐらかした。
 
「どうせ大したことはしてないくせに」と毒づいたり「そんなことないよ。これはこれで充実した時間だよ」と返されたり「じゃあ何してたか教えろよ」とイラついたり「だから秘密だって」とイラつかれたりする何でもないやり取り。
楽しんだり、喜んだりするようなことはないぐらい自然に交わされる日常の会話。
 
「九電君、結婚とかは?」
 
江坂さんにこう言われたときは「この人は何を言っているんだ」と思ったものだが、オレでも美砂でもない二人をよく知る第三者が見た二人の関係は、もしかしたら将来、そういう関係になっていることが簡単に想像できたのかもしれない。
「これから先、どうなるかわからない」と思うのが恋愛なら「これから先もこうなんだろうな」と思うのが江坂さんの見るオレと美砂の――。
 
「ほら、何やってんの。着いたよ、駅」
「え? ああ」
 
背中をバンバン叩かれる。
次いでスキップで電車を降りる美砂。
 
こういう立ち振る舞いだけを見ていると、とても同年代の女とは思えない。
社会の悪い面で擦れた感じがしないところが美砂のいいところかもしれない。
 
「最初に言っとくがな、美砂」
「ん? なに?」
「お前は酒癖が悪いんだから程ほどにしておけよ。今日は王様ゲーム付き合わないからな」
「またまたー、実は楽しみにしてるくせに」
「してねぇよ」
「私が切り出すのを心待ちにしてるくせに」
「してねぇっての」
「あはははは」
 
アミと美砂は顔見知りなわけだし、今日は斉藤もいるし、手に負えなくなったら放って帰ってもいいよな。
とまぁこんなことを考えていられたのも、美砂が五杯目の梅酒ロックを飲む前の話だったわけで。
アミと斎藤が付き合ってるなんてこと言わなきゃよかったかもしれない。
 
「じゃあ王様の命令行きまーす! 斉藤君とアミちゃんが三十秒抱き合ってちゅー!」
「ちょっと待って。美砂さん、今名指しで言いました?」
「ううん? えっと、アミちゃん1番? 斉藤君は? 3番? じゃあ1番と3番が三十秒抱き合ってちゅー!」
「こらこらこら!」
 
もはやルールも何もあったものではない。
美砂のところに王様が回るのは、江坂さんの送別会のときにやって見せた何かしらのいかさまが使われているからだろう。
美砂は他人に回った割り箸の番号を盗み見てはやりたい放題やっている。
 
とりあえず今日は斉藤の歓迎会みたいな感じらしいので、主役の斉藤と、その斉藤が一番喜ぶであろう相手のアミが毎回選ばれて、人前でやるには抵抗があるが、自宅では毎日やっていそうな内容の命令が飛びまくっている。
美砂のテンションが上がると同時に、居辛さを感じた他の客が店を出て行くのと平行して、王様からの命令も徐々に過激なものになっていく。
止めようと思った場面もあったが、当人たちが恥ずかしながらも従っていく様を見ていたら、オレの常識的な思考回路はこの場では無粋のような気がして、美砂がオレを選ぶとき、何を命令するのかだけを意識するようになった。
 
「九電さんの彼女って、本当に面白いよね」
 
店員という立場があるはずだが、美砂が出来上がってからのアミはカクテルを作ることもなくなり、カウンターのこちら側が定位置となっていた。
というか、ことあるごとに美砂が呼び出すので、向こう側にはいられないというのが正しいか。
斉藤が王様の命令にクレームをつけている間ぐらいしか、オレと話す時間がやってこない。
 
「彼女じゃないけどね。前にも言ったと思うけど」
「違うなら、なんなの? 前にも聞いたと思うけど」
「だから、ただの同僚だって」
「本当?」
「まぁ」
「本当に本当?」
「なんでだよ」
「いや、それなら、なんで私、フラれたのかなって」
 
斉藤のクレームは怒涛のごとく押し寄せる王様の反論によって容赦なく切り捨てられている。
普段コールセンターの業務で様々な客の相手をしているからか、美砂は相手の言い分に対しての反撃の仕方を心得ているらしい。
酔ってなお斉藤を折れさせる話術は、アルバイトにしておくには惜しいぐらいの迫力があった。
 
「美砂さん、マジで勘弁してくださいよ。無断で欠勤してたことは謝りますから」
「ダメダメ! 王様の命令は絶対です! 王国に住む者は例外なく王様に奴隷として仕えるべき宿命なのです!」
「俺、王国民じゃないですよ。美砂さん、いい加減飲みすぎですって」
「貴様、王様に意見するとは不届きなヤツ! おい、九電君! じゃなかった、2番はいないのか、2番は!」
「はいはい、なんですかっと」
「斉藤君を、じゃなくて、3番を縛り上げて、1番への生贄として差し出したまえ! そして氷口移し! さらには三十秒ディープキッス!」
「はいはい」
「ちょ! 九電さんまで! マジですか、勘弁してくださいよ! ちょっと待って!」
「斉藤、お前に殴られた痛みは忘れていないぞ」
「は? いやそれは、すいませ、じゃなくて、今そんなことは問題じゃなくて!」
「今この場の美砂の相手と、オレと美砂の分を奢りということで手を打とう」
 
シラフで言えることには限界があるからな。
この辺で借りを返させておくのは常套手段だろう。
 
王様の命令どおり1番と3番に嬉しい罰ゲームをくれてやったところで、アミが次の王様を選出しようとする美砂の手を掴んだ。
 
「美砂さん、毎回美砂さんが割り箸を配るのは不公平ですよ。そう思いませんか?」
 
うおっ、すげぇ勇気。
この場で酒に飲まれていないのはアミちゃんだけじゃないのか。
一番年下とはいえ、場慣れしている感が半端ない。
 
「そ、そうかな? 別にずるやってるってわけじゃないんだし、別に」
「ずるじゃないんなら、私がやっても問題ありませんよね?」
「えっ?」
「問題あるんですか?」
「いや、別に? 別にないけど」
 
そんなことを言いつつ、美砂の表情が強張っている。
粗暴な王様はなりを潜め、運命の割り箸ルーレットがアミの手に渡る。
アミは手の中で割り箸を混ぜて、最初にオレのほうへと突き出した。
 
「選手交代です。どうぞ」
 
なんだ、このにやけ面は。
オレは深く考えないようにして一本を引くが、期待は外れて、王様ではなく2番の割り箸だった。
 
アミは美砂、斉藤の順番に割り箸を差し出すが、どうにも嫌な予感がする。
大体王様ゲームというヤツは、王様にならない限りは何らかの被害に遭う可能性があるわけで、少人数となると、王様になれる確率が高くなる代わりに、なれなかったとき、罰ゲームをさせられる可能性が高くなるわけで。
 
「王様だーれだっ!」
 
アミが掛け声を発するが、とりあえず美砂は手を挙げなかった。
オレはホッとしたが、それ以上に斉藤が安心しているのが気にかかる。
斉藤からすれば、美砂が王様でないのならそれでいい、という心境だろう。
今まで散々やられる側であったために、その気持ちが手に取るようにわかった。
 
しかし、美砂でもなければ斉藤でもない。
オレは2番だから、当然オレであるはずもない。
ということは王様は消去法で……。
 
アミが「王様♪」と書かれた割り箸を見せびらかす。
「さて、ここから反撃ですよ」と言わんばかりの悪い笑み。
 
「美砂さん、何番ですか?」
「え? そんなの言えるわけないじゃん!」
「あー、ずるいですね。今までは散々私たちの番号盗み見してたくせに」
「そ、そんなことしてたっけ?」
 
惚ける美砂。
いやに攻撃的なアミ。
 
「確か王様の命令は絶対なんですよね?」
「と、ときと場合によると思うけど?」
「王国に住まう者は例外なく王様に奴隷として仕えるべき宿命なんですよね?」
「ダメ! 奴隷制度はよくない! 私、断固反対します!」
「では、2番が3番に――」
 
命令が発表される寸前、斉藤がオレに耳打ちする。
「格好いいところ、見せてくださいよ」と。
 
「告白して、抱き合って、キスです!」
 
王様ゲームのいかさまって、意外と簡単なのか?
オレがやり方を知らないだけか?
 
オレは命令に従って立ち上がる。
 
「え? うそっ! 2番って九電君? ちょ、ちょっと待って!」
 
美砂が派手に仰け反って、テーブルのグラスが床に落ちる。
酒の上気を別にしても美砂の顔が赤くなっているのがわかった。
 
アミの気持ちもわかる。
自分が攻撃するときはやたらめったら調子に乗るくせに、やられる番となればこの慌てよう。
確かにこいつには制裁が必要だ。
 
「美砂」
「待った! よくないってこういうの! 落ち着こう! とりあえず水飲んで落ち着こう!」
「美砂、オレは美砂が好きだ。オレと付き合ってくれ」
「……ほ、本気なの?」
「バーカ、罰ゲームだよ」
 
腰が引け気味な美砂に重なって、オレは奴隷としての宿命を全うする。
アミと斉藤が拍手している様子をオレは背中に感じていた。
 
 
7/23(月)
 
今日も市場は大暴落。
オレのポジションも例に漏れずダメだった。
 
再び赤くなった画面。
この追証に対して差し入れる金は、もうない。
どの道強制的に決済されるならば、とオレは意を決して全てのポジションを決済した。
つまりは大損、これで完全なノーポジだ。
 
でもなんか、これでよかったのかな、という気持ち。
証券会社の口座に表示されている金は、初期の頃に比べれば随分目減りしたが、最後に差し入れた分の金、つまりオレから借りたオレの生活費の分は残ることになった。
 
投資資産を全て失ったが、生活は傾かず、借金もせず、ついに株から足を洗う決心がついたのだ。
もしかしたらこれが、株神様がオレにもたらした最後のご利益だったのかな、とそんなことを思う。
 
職場の面々は江坂さんが抜けて百田が加わった程度で変わりはない。
 
斉藤も無事職場復帰を果たし「迷惑かけた分は絶対取り返しますから」と百田以上に息巻いている。
さりげなくFXのことを聞いてみたら、本当に済まなさそうにしながら「辞めましたよ」と答えた。
重ねた借金の返済の目処が立つまでは、余計なことを考えずに仕事を頑張ることにしたらしい。
 
アミとは今後も同棲を続けるつもりらしいが、金銭面で世話になりそうなことを意識してか「滅多なことでは口答えしませんよ。今はアイツのほうが主導権握ってますからね」と空笑いしている。
結婚するつもりだとか言っていたが、もしそうなってもその力関係は変わらないだろうな、とオレは思った。
 
美砂はオレと過ごす時間が多少増えたぐらいで、職場ではあまり目立った変化はない。
お見合いのことは「彼氏ができたから絶対行かない!」と全力で突っぱねたらしいが、その気概を聞いていると「これで本当によかったのか?」と疑問が沸いてくる。
まぁ断る口実を明確にするために思っている以上のことを言ったのかもしれないが、アイツの場合、どこまで本気なのかわからない。
オレは今のところなるようになるか、と軽い気持ちで美砂と付き合っているが、そのうち何かしらの決断を迫られる場面もあるだろう。
そのときオレがどう答えるか、今はまだわからんが、一週間ぐらい前は斉藤も美砂も職場を去って、と少し寂しい気持ちになっていたから、とりあえず現状維持が続くようでよかったのかなと考えている。
 
昨日の美砂はオレも休みだと知るや否や「どっか面白いとこ連れてけ!」なんて言ってきた。
とりあえず映画とかが手軽で妥当かな? と思ったものの、最近の流行りだとかにまるで疎いオレは、近場のどこに映画館があるのかすら知らなかった。
結局TUTAYAに行ってお互い適当なものを二、三本見繕い、オレの部屋でダラダラ見てただけ、というつまらん休日の過ごし方をすることになった。
 
刺激も糞も何もない。
オレがいつも部屋でやっているネットサーフィンや動画鑑賞が「美砂と一緒に映画」に変わっただけの話だ。
 
晩飯の材料を、と二人で買い出しに出たとき、ふっと株の話題が出た。
美砂は「そんなことに使うお金があるんならもっと充実した晩御飯のおかずを買おうよ!」とオレが抱えたカップラーメンの山を売り場に戻していた。
 
もうなんていうか、嫁に財布を握られた悲しい夫みたいな状態になっているが、株のことについてはブログを読んでいた美砂の言うことにも一理あると思う。
損する瞬間すら楽しみに変えられるような人でなければ、あんな人を殺してやまない相場に生涯付き合っていくなんて無理だろう。
また財布にぎっちり詰まった金を見せられても困るし、当分は大人しくしておこうかな、というのが今の本音だ。
 
 
 
今日の昼休み、美砂が「お弁当を作ってきた!」と言って屋上にやって来た。
素材の貧困なオレの冷蔵庫から捻出される料理と違って、美砂の弁当は彩りも華やかな女の子、いや女性らしい弁当だった。
階下の食堂ですでに昼食を済ませていたオレは「食べる前に持って来いよ」と文句を言ったが、斉藤が割り込んできて三人でつついた結果、美砂の弁当は程よい充実感を与えるぐらいの役割は果たしたようだ。
斉藤が羨ましそうに「いいなー、真美も料理できたらなー」と言っていた。
 
「ねね、それより九電君さ」
「なんだよ」
「百田君の歓迎会なんだけどね」
「ああ、結局やることになったのか」
「うん。せっかくだからアミちゃんのお店に行こうと思ってさ。どうかな?」
「いいんじゃないか? 居酒屋で騒ぐより融通利くしな」
「斉藤君ももちろん来るよね? ね?」
「行きますけど、美砂さん、王様ゲームはなしですよ? 九電さんとベタベタするのは各々の自宅でやってくださいね?」
「な、何言ってんの! 斉藤君、若いなー。そんなこと、もうじき30になる私がするわけないじゃん」
「あれ? まだ二十代とか強調するのが美砂さんじゃありませんでしたっけ?」
「あはは、それは昔の話だよ。今を生きないとねー」
「九電さん、美砂さん変わりましたね」
「そうか?」
「ええ、そりゃもう180度」
「斉藤君ー、それは言い過ぎだぞ! あんまり私をからかうと、もうお弁当作ってきてあげないぞ!」
「あ、すみません、すみません。またよろしくお願いします」
「まぁ斉藤君に作ってくるわけじゃないけどね」
「知ってますよ、そんなこと。でもまた分けてくださいね。食堂より美味いですから」
「おぅおぅ、ちゃんとお世辞の使い方をわかっとるね、君! 九電君も斉藤君を見習いなさい!」
 
これが日常。
株の動かない平和な昼休み。
 
これでいいんだ、きっと。
オレはこれでいい。
 
早くもオレの悪口へと発展し始めた斉藤と美砂のやり取り。
オレはその様子をいつになく穏やかな気持ちで聞いていた。
いつまでもこの賑やかな雰囲気が壊れなければいいなと思いながら。
 
 
 
九電男はスイングトレードをしているぜ! 終
 
※この物語はフィクションです。実際の人物、企業、事件などには一切関係ありません。

 
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