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株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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7/19(木)
 
資産残高が○○円を割ったら損切り。
維持率が○○%を下回ったら損切り。
つまりは強制決済、それはオレの本当の意味での敗北を意味する。
 
オレは午前の配達中、ずっとと言って良いほど携帯の画面を見続けていた。
強制決済のラインがさながら水平線のように見えていて「ここを割り込むと沈没、二度と這い上がってこれない地獄の底だ。とにかく沈むな、沈むな」と願い続けた。
 
オレは幸運だったのか。
いやいや結局今日の動きは戻さず仕舞いで、利益になったわけではないのだから、幸運などと言えるわけがない。
しかし最悪の一日だったというわけでもなく、株価は昨日の大幅下落の底を探るように地味なヨコヨコを続けていた。
 
前場の出来高は少なく、値動きもほとんどない。
安心していられるといえば大嘘だが、どうやらオレにとってのXデーは今日ではなかったらしい。
とりあえずはホッとする。
 
今日が引ければ、今週も残すところ一日。
経験からいって特別なニュースでもない限り、大きく動くのは週明けのような気がする。
オレは後場に嵐が起きないことを祈りつつ携帯を閉じた。
 
午前の配達を終えたオレは珍しく営業所の玄関前を通りかかった。
屋上の自販機で普段買っているマイルドセブンが売り切れていたから、そばのコンビニへと移動する最中のことだった。
偶然すれ違った斉藤は、制服やネームプレート、ロッカーの鍵などの備品を事務へ返却に行くところだったようだ。
軽く会釈して過ぎ去ろうとする斉藤をオレは呼び止めた。
 
「久しぶりだな、斉藤」
 
そうは言っても、つい一昨日会ったばかりだ。
毎日顔を付き合わせる立場だった故にこの程度でも久しぶりだと感じてしまう。
職場の同僚は友人とはまた違う雰囲気があった。
 
「やっぱり辞めるのか、仕事」
「はい、すみません」
「FXは? まだやる気か?」
「はい、すみません」
「考えは変わらんか?」
「はい、すみません」
 
同じ文言を繰り返す斉藤。
 
所詮職場の人間関係なんて仕事を辞めてしまえばそれで終わり。
今は面倒なことをさっさと済ませてしまいたい。
 
斉藤の考えていそうなことが次から次にと頭に浮かんだ。
「じゃあ俺はこれで」と立ち去ろうとする斉藤を、オレはまた呼び止めた。
 
「斉藤、何度も言うが、考え直せ。今日もお前の抜けた穴を埋めるためにオレたちは手いっぱいだ。今ならまだ間に合う。FXで負けている真っ最中の今のお前の決断は、後々絶対後悔するぞ」
「九電さん、いいんですよ、もう」
「なんだと」
「オレは所詮アルバイトなんです。だからFXのことがなくたって、いずれは辞めさせられる運命にあるんですよ。九電さんとは違うんです。若くて体力のある今だからこそ、九電さんもそう言ってくれる。でもこれから十年、二十年と同じことをするなんて無理なんですよ」
「江坂さんは定年間近まで勤め上げたぞ。配達だってお前の早かったじゃねぇか」
「江坂さんは正社員じゃないですか。俺とは全然違いますよ」
「…………」
「九電さん、もういいですか? 俺、これ返した後、行くところあるんですよ」
「どこだよ」
「すみません、それはちょっと」
「まさかまた金を借りに行く気じゃねぇだろうな」
 
あてずっぽうで言ってみたが、どうやら図星だったらしい。
斉藤が言葉を詰まらせて、居心地悪そうに下を向く。
 
「泥沼だと思わんか? 自分の金でどうこうしているあいだはともかく、他人の金を借りてまでなんて」
「九電さんに何がわかるんですか。しょうがないでしょう。もはやこれしか方法はないんです」
「…………」
「すみません、俺急ぎますんで、これで」
「待てよ」
「いい加減にしてください! 九電さんには関係ないでしょう。俺が何しようと俺の勝手でしょう。やめろって言うんなら、九電さんが代わりに金貸してくれますか? 職場に戻れって言うんなら、九電さんが俺を正社員にしてくれますか? できないでしょう。どっちも。口先だけでどうこう言うのは誰にでもできますよ。もう俺に構わないでください」
「そうかよ」
 
オレは横に半歩動いて、斉藤が通る道を作った。
 
「わかった。もう何も言わねぇよ。勝手にすればいい。オレも勝手にするわ」
「すみませんでした、九電さん。今までありがとうございました」
「いいよ。今日のお前の態度でオレも決心が固まった。オレ、アミちゃんと付き合うことにするわ」
「……は?」
「昨日、アミちゃんがオレに付き合ってくれって言ってきたんだよ。お前に愛想が尽きたんだってさ。まぁそりゃそうだよな。何を言っても聞かねぇし、お前といたって未来なんてないもんな」
「待ってください、今の話、本当ですか」
「前々から羨ましいとは思ってたんだよな。お前のこと。ことあるごとに彼女が彼女がって言いやがってよ。何回オレの誘いを断った? でもあんだけ可愛い彼女が相手ならしょうがないよな。わかるわかる。お前の代わりにアミちゃんのこと、大事にするわ」
「…………」
「しっかしアミちゃんもついてないよな。斉藤みたいなバカ野郎に付きまとわれてよ。お前、必死だったそうじゃんか。三十回も告白したんだって? 笑ったよ。思いっきり笑ったよ。アミちゃんからそれ聞いたとき。でもオレは違うぜ? だって向こうから言ってきたんだもんな。あんな若い娘に好きだって言われんの、オレ初めてだわ。あ、お前鈍感そうだから一応言っとくけどな。もうアミに連絡してきたりすんなよ? アミはお前のものじゃないんだからな。アミに用があるときはオレを通せよ? ま、電話出るかどうかわからんけどな」
「あんたに真美の何がわかんだ!」
 
斉藤が叫んだかと思うと、突然ぶん殴られた。
加減なしにやられるのって、子供のとき以来なんじゃないか。
覚悟していたとはいえ、こんなに痛いとは。
 
「調子に乗るんじゃねぇ! 何回か店に飲みに行っただけの癖に!」
 
思わず床に転がったオレを斉藤が睨みつけている。
 
それにしてもアミちゃん。
本名は真美って言うのか。
真美でアミか。なるほどなるほど。
 
源氏名を本名と全く違う名前にすると、いざ呼ばれたときに反応できないから似通った名を名乗るというのは本当だったらしい。
あの年でその辺の事情を心得ているというのは、アミちゃんもなかなか逞しいなと思った。
 
「やり返さねぇのかよ。口先だけっての、認めんのかよ」
「なぁ斉藤、ここでオレが殴り返したら、オレどうなると思う?」
「知らねぇよ、そんなこと」
「ここはオレが勤める職場なんだぜ? 昼前の玄関先で誰もいないから助かったけどよ。正社員が暴力沙汰なんか起こしてみろよ。どんな処分を食らうかって話だ」
「へっ、処分が怖いから泣き寝入りってわけかよ。大したことねぇな、正社員もよ」
「そうだ。処分が怖いから泣き寝入りだ。殴られっぱなしだ。オレ、損だよな? アルバイトで、しかもこれから辞める予定のお前は好き放題できるのに」
「だからなんだよ。俺はそういうのが嫌だから仕事は辞めんだ」
「わかってるよ。でもその代わりお前は、これから何の保障も保険もないFXの世界で生きていかなきゃならない。失敗したって誰も助けてくれない。貸した金が返ってこなくなったら、酷いやり方で取り立てられるかもしれない。それを思えば、処分で済むオレってラッキーだよな。失敗したって給料はもらえるし、頭固そうな爺さんの説教聞くだけで済むんだからよ」
「…………」
「さ、ほら行けよ。急ぐんだろ? 呼び止めて悪かったな」
 
このとき、沈黙してただ突っ立っていた斉藤が何を考えていたのか、オレは知らない。
ただ玄関から出て行こうとせず、事務室を目指して走っていったのは、結局心変わりはしなかったということなんだろう。
オレはせめて殴られ損にならなきゃいいけど、とどこか他人事のような気持ちで斉藤を見送っていた。
 
 
 
「どうしたんですか、九電さん。血、出てますよ」
 
午後の配達に取り掛かろうと準備していると百田が大げさに反応して見せた。
さっきは気がつかなかったが、斉藤に殴られた拍子に口の中が切れていたらしい。
 
転んだ、とでも言おうかと思ったが「転んで口の中を切るマヌケな先輩」と思われるのが嫌なので「別に」と言ってごまかした。
まぁ百田は、仕事のことはともかく、あまり他人のプライバシーに深入りしようとする性格ではないからこの辺の対応は気楽でいい。
百田に指摘されなければ管理者の誰かにバレて、詳細な問責を受けていたかもしれない、と思うと、第一発見者が百田でよかったとは思う。
 
「今日もキツイな。百田、そんなにたくさん配れるのか?」
 
台車にわけがわからんほどの荷物を積んでいる百田。
まぁトラックの限界積載量を考えれば問題はなさそうだが、百田の積んでいる荷物の中には割と厳しい目と思われる時間指定の荷物も混ざっている。
斉藤が職場復帰していればここまで無理をすることもないんだろうが、今はまだ代わりのバイトが採用されていない状態だ。
オレはこんなことを言いつつも、これくらいはやらなければ営業所が回らないという現実を嫌というほど感じていた。
 
「僕は大丈夫ですよ。向こうの営業所ではこれくらい普通でしたから」
 
強がりにも聞こえるが、百田の笑みは平然としたものだった。
東京の営業所から転勤してきたと言っていたが、都会は普段からそんなにキツイのか。
オレは未だにここの営業所に留まれている幸運をかみ締めずにはいられなかった。
 
「それより九電さん」
「なんだ」
「仕事中にこんなことを言うのもアレなんですけど、コールセンターの、えっと、美砂さん? でしたっけ? さっき九電さんのこと探してましたけど」
「またアイツか。気が滅入るな。どうせ用件はクレーム対応かなんかだろうし」
「仕事の話じゃないみたいですよ? 忙しかったら終わってからでもいいって言ってました」
 
珍しいな、仕事の話じゃないのか。
しかし昨日、斉藤のことがどうとか言って、そのまま放置してある。
となると、あの続きを聞かされる可能性が高いな。
どっちにしても聞きたくない話であることは確かか。
 
「とりあえず僕、配達行ってきますね」と百田が出て行く。
 
いつも思うが、アイツのやる気はどこから出ているのか不思議なぐらいだ。
斉藤の穴がなくても、結構な仕事量があるというのに、百田は毎日張り切って仕事にかかっている。
まぁ転勤して間もないうちは周りの目もあるから、という意味で活気を出そうとしているならわかるが、百田の場合は素であの感じなんじゃないかと思う。
 
今日は早めに終わったとしても20時21時にはなるだろうな、と意気消沈しているオレとえらい違いだ。
今はオレの後輩に当たるわけだが、案外ああいうタイプが江坂さんの言っていた「幹部候補」なんじゃないかな、と何となく思った。
 
 
 
時間指定でもっとも鬼門なのは、最終の20時以降の便だ。
12時から14時とか、14時から16時とかの指定便は、受取人も細かい時間を気にしていないためか、多少早かったり遅かったりしても問題なく済んだりする。
しかし20時以降の便は、大幅に遅れると酷いときは22時以降に配達、なんてこともあるわけで、客先から「何時だと思っているんだ!」と説教されてしまう。
 
まぁ常識で考えれば、21時22時なんてのは深夜の時間帯とも言えるわけで、そろそろ寝ようかとしているときにインターホンが鳴らされるんだから不機嫌になるのもわかる。
しかし昔と違って今は、勤め人の帰りが遅くなっていることも手伝って、指定便の中じゃ最終便に配達を希望する客が多かった。
 
その日のオレが最後に行った配達先もそういうところで、受取人は二十代前半の男性だった。
通販で買った18禁グッズ(たぶんオナホ)と思われる荷物を配達に行ったら、受取人の母親が出て「こんな遅い時間に何を届けてもらったの」と詰問され、家族の見ている前で中身を披露。
オレは営業所に帰るなり客先からクレームを入れられ、ネチネチ言われたというわけだ。
 
配達の要員に穴が開いている以上、普段より指定時間が守りにくいのはある程度仕方がない。
まぁこんなことでクレームを入れられるのは納得がいかないが、それ以上に長時間労働が日常茶飯事となってしまっているのが問題だ。
終電かその一本前ぐらいの電車に乗ってようやく帰れる毎日は誰でも辛いだろう。
別に斉藤の抜けた穴一つでこうなっているわけではないが、せめて21時ぐらいには仕事を上がりたい、というのが普段の本音だ。
 
更衣室で着替えたときには、22時を回っていた。
かなり疲れたが、ここまで遅くなると忙しなく帰るのも億劫で、一服してからにするかとオレは屋上に向かった。
 
誰もいない夜の屋上、というのは少し落ち着く。
オレは夜空に向かって煙を吐いた。
 
「九電君、お疲れ」
 
美砂の姿を見るまで、昼間に百田に言われたことを忘れていた。
なんでこんな時間に? と呆気にとられるオレの隣に美砂がやってきた。
 
「大変だね。お客さんに怒られたでしょ。荷物が遅いからって」
「慣れてるよ。っていうかお前帰ってなかったのかよ」
「話があるって言ったじゃん。百田君から聞いてないの?」
「聞いてるよ。でも明日でいいだろ。わざわざ待ってなくたって」
「いいじゃん別に、私の勝手でしょ」
「仕事の話なら聞かないぞ。疲れてるからな」
「仕事の話なら仕事中に言うよ。私だって疲れてるし」
「何の話だよ。また斉藤のことか?」
「違うよ。今から飲みに行こうと思って」
「はぁ?」
 
何を言い出すのかと思えば。
もう22時だぞ。こいつには常識がないのか。
 
美砂はオレが断ることを予想していなかったのか、オレの反応を見てきょとんとしている。
「終電がなくなるだろ」という現実的なオレの言い分には耳を貸さず「行こうよ」としか言わない。
誘い方が強引過ぎて、何かあるのかとしか思えなかった。
 
「っていうか、どこ行くつもりだよ。今からだったら閉店まで時間も」
「アミちゃんのお店でどう? お互い家近いし、タクシーで帰れるじゃん」
「パス」
「なんでよ」
「オレは疲れてるの。お前の愚痴に付き合うだけの体力は残ってないの」
「そっか、行きたくないんだ」
「行きたくない」
「アミちゃんのお店だから行きたくないんだ」
「なんでそうなる」
「…………」
「なんとか言えよ」
「九電君、株やってるでしょ」
 
一瞬、何を言われたのかと思った。
心臓が脈を打つのがわかる。
 
なんで知ってるんだ、こいつ。
株のことは誰にも話していない。
職場で経済関連の話題を振ったこともない。
なのに、なんで。
 
「ごめんね、秘密にしたかったんだろうけど」
「いつ、どこで知ったんだ」
「先々週の土曜日。江坂さんの送別会の後、アミちゃんのお店に行ったよね」
 
ああ、そういえば。
オレの中で疑問が解決していく。
 
思えばアミちゃんには色々話したもんだ。
株のことも、ブログのことも、掲示板のことも。
そしてオレが損しまくっていることも。
 
あの日のアミちゃんと美砂は、やけに意気投合していたし、オレが帰った後も美砂は閉店まで居座っていたらしいから、オレに関する情報が横流しにされていても不思議はない。
個人情報の漏洩だと文句を言いたくもなるが、あの日の雰囲気を思い出してみれば、アミちゃんが美砂にオレのことを話す、というのもわからなくはない。
しかしそうなると、もしかして。
 
「九電君、ブログもやってるんだね。去年の9月からの分、全部読んだよ。インターネットの掲示板で色々言われてることも知ってる。このこと、九電君に言おうかなってずっと悩んでたんだけど、なかなかタイミングがつかめなくてさ」
 
やっぱりな。
オレがアミに話したことは、大体美砂に筒抜けと考えていいらしい。
オレは何か例えようもない居心地の悪さを感じて頭を抱えた。
 
「去年の9月からって、かなりの文章量があったはずだけど、全部読んだのか」
「うん。私、こう見えても本読むのは早いから。九電君、文章うまいね」
「それはご苦労なこった。じゃあ、ついでに一つ聞くけどよ」
「なに?」
「先週にシークレットでコメント書いたの、お前だろ」
「うん、もしかしたら気づいてくれるかなって思ったんだけど」
「気づかねぇよ。ストーカーされてるみたいだった」
「ごめん、そんなつもりはなかったんだよ」
「お前がどんなつもりか知らないけどな。誰かもわからない知人と思しきヤツに、他言したくないブログを読まれてるなんて知ってみろ。最悪の気分だろ。そんなこともわからねぇのか」
「だから株のこともブログのことも知ってるって九電君に言おうか悩んだ、って言ってるじゃん」
 
美砂は申し訳なさそうな顔をしたと思ったら、すぐに逆切れモードへと変わる。
棚上げというか、この辺まで来ると美砂の頭の中では「悪いことをした」という意識はすっ飛んで行っているらしい。
今更腹を立てる気もないが、仮にいらついていたとしても、この反応を見たら呆れてしまうに違いない。
 
「コメント、読んでくれたんでしょ」
「ああ読んだよ。なんであんなこと書いたんだ」
「なんでって言われても」
「オレが株をやっていようとギャンブルしていようとお前には関係ないだろ」
「九電さんのブログを読んでると悲しくなりました、って書いたよね、私」
「それがなんだ」
「女の子を悲しませちゃ、いけませんよね」
「何が女の子だよ。三十路のくせに」
「まだ29だって!」
「あっそ。で? その三十路の女の子がオレのブログを読んで、なんで悲しくなるんだよ。お前はひっそりと観察していた職場の同僚が痛い目に遭っていると、手を差し伸べたくなるような心優しい女神様なのか?」
「本物の女神様じゃないけど、心優しい女神様ならいいよ」
「どういうことだよ」
「手を差し伸べるって部分。助けて欲しいんでしょ?」
「簡単に言うじゃねぇか。どうすればオレが助かるのかわかってるんだろうな」
「うん」
「じゃあ金貸してくれ」
 
当然のことながら本当に借りる気はない。
株のことが共通認識となった以上、ここで言う「金」というのは、電車賃がないから貸してくれとかいう小銭の話じゃない。
追証を回避して、なお次の相場に備えるだけの軍資金を貸してくれと言っているわけだ。
 
株を辞めろと言ってきた美砂だから、それを続けようとするオレに手を貸すはずがない。
美砂が何ゆえこんな遅くまでオレを待っていたのか、未だにわからないが、ここまでのくだらないやり取りをするためじゃないことぐらいはオレにもわかる。
黙ってブログを観察して、忌々しいコメントまでつけてくれたことに対する嫌悪感はあるものの、オレとしてはそんなことよりも、早く本題を聞いて、終電に間に合うように解散したいところだった。
 
しかし美砂は躊躇うことなく財布を開いた。
 
オレは中身を見て驚く。
普通というのがどれくらいのランクを指しているのか曖昧だが、普通の三十路の女が持ち歩くにしては金額が大きすぎた。
 
ひと目見ただけでも五、六十万は入っている。
財布自体もパンパンに膨れ上がっていて、明らかな容量オーバーを示していた。
 
美砂は別段金持ちの娘だとかいうわけではない。
仕事もアルバイトのコールセンターだし、給料もオレより少ないはず。
なのに、この財布。この唸るような金。
 
「お前、それどうしたんだよ。もしかして貯金全額持ち歩いてんのか」
「今日だけはね」
「何か買いたいものでもあるのか?」
「別に。っていうか今からじゃどこも閉まってるよ」
「それじゃ何のために大金持ち歩いてんだよ。襲われるぞ、お前」
「決まってるじゃん。九電君のためだよ」
「はぁ?」
「お金が必要なんでしょ。私でよかったら貸すから」
 
笑っていた美砂が悲しそうな顔に変わる。
 
ブログを全部読んだと言った美砂。
オレがいかに大損してきたかを細かく知っている美砂。
その様子を見て「株は辞めるべき」と言ってきた美砂。
 
その美砂が、オレに金を貸す?
電車賃みたいな小銭じゃなく、今後の投資に必要な軍資金を貸す?
 
どういうことだ。
頭が混乱する。
 
「私、株のことって全然知らないの。だから九電君の辛さがわかるなんて言わない。でもこのままだったら、九電君も江坂さんや斉藤君みたいにどっかに行っちゃいそうな気がして。私は今でも思ってる。九電君に株を辞めて欲しいって。でももしそれが無理なら……」
「金を貸すから、生き延びて欲しいってことか?」
「うん」
「返って来る保障もないのに?」
「うん」
「お前もしかして金を貸すためにオレを待ち伏せしてたの?」
「うん」
「お前バカだろ」
 
呆れて投げたオレの直球は、美砂に下を向かせるぐらいの威力はあったらしい。
美砂はなんと言ってよいやらわからず、居心地悪そうにしている。
オレはため息をつくしかなかった。
 
美砂がこんな時間までオレを待ち続けていた理由。
普段持ち歩かないような大金を財布に入れている理由。
 
それが、まさかこんな理由とは。
 
「お前なぁ」
 
この状況、普通なら気持ち悪いとか思ったかもしれない。
 
だってそうだよな。
どこの誰が黙って大金を差し出してくれるって言うんだ?
それもこんな押し貸しみたいな形で。
 
うまい話には裏がある。
貸すときは仏の笑みで、返すときは閻魔の形相。
そんな話はいくらでも知っている。
 
だから美砂の財布の中身を見たとき、最初はオレもそう思った。
こいつ、何かたくらんでいやがるなと。
 
でも……。
美砂だからな、相手は。
 
江坂さんの送別会のときには「また飲みに行きましょうね」
百田が職場に来たときには、遠慮する百田に食い下がってまで「歓迎会やろうよ」
斉藤が来なくなったときには、オレをとっ捕まえて「九電君にとって斉藤君は、ただのアルバイトの配達員じゃなかったでしょ?」
 
オレのよく知っている美砂。
この上なくうっとうしい美砂。
 
オレのブログを全部読んでオレの置かれた状況を知っている美砂。
わざわざシークレット機能を使ってまでコメントを入れてきた美砂。
 
その美砂だからな、相手は。
 
「美砂、お前なんでそこまでするんだよ。職場の同僚を大事にしたいのはわからなくもないけどよ。金に困ってるやつを見つけるなり、誰彼構わず貸してやってたらいくらあっても足りないぞ」
 
特にオレは消費者金融の請求を大量に抱えた斉藤のことを知っている。
必要になるだけ貸してくれなんてことになったら共倒れもいいところだ。
 
「誰彼構わずじゃないよ」
「だから職場の同僚限定でだろ」
「違うよ。九電君だからだよ」
「だからオレが職場の同僚だからだろ」
「違うよ! なんでわかってくれないの!」
「何をだよ!」
 
女の考えることはわからん。
いや、美砂の考えることはわからん。
何ゆえオレがキレられているのかがわからん。
何ゆえこんな雰囲気になっているのかがわからん。
 
美砂が突然泣きそうになったかと思うと、そっぽを向いた。
 
「私ね、お見合いするんだよ」
 
涙声にも聞こえるか細い声だった。
 
「父方の実家が九州にあるの。農業やっててね。ほら最近よく聞くでしょ。跡継ぎがどうのって。本当はお母さんが九州に嫁ぐ予定だったんだけど、お爺ちゃんともの凄く仲悪くてさ。私が生まれるときにこっちに来たんだよ。でも私が成人してからはお爺ちゃんから毎年のように手紙が来ててさ。帰ってきて欲しいって言われてたの。でも私、一人娘だから、お母さんがずっと反対しててさ。お見合いなんて今時じゃないなんて言われて」
「…………」
「でもほら、私ってもうこの歳じゃん。仕事もアルバイトだしさ。彼氏もいないし、いい加減断る理由がなくなってきててさ。あはは、相手は結構イケメンなんだって。九電君もちょっとしたものだけどさ。それよりもっとなんだって。ちょっと楽しみだよね。会ったことはないけど。お爺ちゃんの家って、昔から続いてるみたいだからさ。土地もたくさんあって、生活には困らないって。なんか、最初はどうしようかなって思ったけど、その、今となったらさ。もうしょうがない、かなって」
「その見合いっていつだよ」
「再来週。一週間ぐらいなら休み取れるらしいから、とりあえずそれで。でも、まだわかんないけどね。私が相手に気に入ってもらえないかもしれないし。っていうかその可能盛大だし」
「美砂、お前もしかして」
「ごめん!」
 
美砂が振り返って両手を合わせた。
 
「ちょっと誰かに聞いて欲しかったんだ。本当それだけ。あ、九電君、お金要らないんだよね? ダメだぞ、あんまり失敗ばっかりやってたら。私がいなくなったら……。いなくなったら、お金借りようとしたってもう無理なんだから! あてにしないでよね。一度断ったんだから」
「お前、本当は行きたくないんだろ、見合い」
「うわっ、もう終電なくなるじゃん。やばい、急がないと。じゃあお先! 明日、遅刻するなよ」
 
オレの言ったことなんて無視して美砂が走り出す。
終電がなくなるのはオレも同じ立場のはずなのに、独りで帰るってか。
振り回されっぱなしだな、今日のオレ。
 
周りが暗いからかよくわからなかったけど、美砂は泣いていたように思う。
振り返ったとき笑ってたけど、もの凄く無理やりな感じだった気がする。
 
オレは独りになった屋上でもう一本、煙草を吸う。
何を考えるでもなく、ボーっと景色を見つめていた。
 
 
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