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株で絶対に負けない方法は「株をやらないこと」です。
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7月11日、朝八時四十分。
オレは今日も職場に来ている。
 
シークレットコメントを読んだ日はあれだけ憂鬱だったというのに、社会人というヤツは毎日毎日飽きもせず会社に通う習慣を体に刻み込まれているらしい。
正直配達なんぞをしている暇があったら、あれが誰からのものなのか虱潰しに探したい気分だ。
しかしそんなオレの心持ちとは裏腹に、職場の面々は誰も彼もがいつもと同じ雰囲気で、オレに対して特別何かしらを思っている風ではなかった。
オレが普段関わりを持つ人間といえば、職場の人間か配達でよく行く客先かのどちらかぐらいしかないというのに、あのコメントが誰からのものなのか見当もつかない。
 
「斉藤さん、遅いですね。そろそろ始業時刻なのに」
 
オレより三十分も早く出勤してきた百田が腕を組んでいる。
百田の出勤が早いのは、何も運びやすい荷物を今のうちに選別しておいたほうが後々楽、という暗黙の裏技を理解しているからではなかった。
新入社員は古参の社員より早く来て当然、という今時古いとも言える考えを根深く持っているからのようだった。
東京の営業所ではそれが普通だったのか、それとも百田が真面目なのか、オレには判断がつかない。
 
「一応斉藤さんの配達先の荷物、分けて置いてあげたほうがいいですかね。僕、自分の分は準備完了してますので」
 
百田のスペースを見ると、誰もが嫌がりそうな大荷物が山のように積まれている。
オレでも行けないことはないが、株価を見ている暇はないぐらい走り回らなければいけない程度の量であることはまず間違いない。
人より遅く出勤してきて残り物を仕方なく積んでいた江坂さんの代わりが百田だとするならば、かなりの戦力アップのように思えた。
 
「お前、毎日頑張るな。人一倍仕事してるんじゃねぇの?」
「え? そんなの当然じゃないですか。僕は新参ですし、皆さんにはまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるんですから。早く終わらせて余裕を作りたいんです、僕」
 
オレが新参で入ってきたとき、こんなだったかな。
早く手を抜く方法を覚えて楽をしようとしか思っていなかった気がする。
随分年下だってのに、立派なもんだよ、百田は。
 
「おはよう、九電君」
 
いつもの寝ぼけ頭で美砂がやって来た。
朝、こいつがやって来るとろくなことがない。
確か以前もオレの休み明けの日に、斉藤が起こしたクレームがどうとかでやりたくもない指導をさせられたんだった。
 
「斉藤君のことなんだけどさ。今日は欠勤したいんだって」
「はぁ?」
「なんか風邪みたいよ。朝一で電話してきて、すみませんけどって」
「じゃあ代わりは?」
「うん、さっきから今日休みの人に電話してるけど、全然繋がらないの。半分は携帯切ってて、半分はコール中で」
 
やってくれるな、斉藤のヤツ。
まぁそれがオレの休日の話なら、オレが呼び出されていた可能性も大なわけで、それを思えば出勤日でよかったと考えられなくもないが……。
 
「斉藤さん、休みですか」
「そうらしいな、困った」
「僕、斉藤さんの分も配達行きますよ。地図に赤丸でもつけてくれれば」
「ばーか、お前がいくら頑張ったところで二人分もいけるわけねぇだろ。時間指定もあるのに」
「それじゃどうするんですか」
「美砂、しょうがないから、管理者に言ってくれ。それしかない」
「……わかった」
 
結局、営業所の面々全員で斉藤の穴を埋めることになった。
管理者の人間は、江坂さんも言っていたように過去に配達員の経験を持つ者が多いため、配達地域に詳しい担当者に場所や注意事項を聞くと、難なく配達業務をこなしていた。
もっとも、場慣れしているオレたちとは違うから、どうしても補助要員的な扱いとなってしまうが、それでも人手があれば時間指定の荷物ぐらいは遅れずに配れる。
今日中とだけ約束している荷物の大半は、オレたちメインの配達員が引き受け、何とか営業所内の荷物を一通り配達することができた。
 
しかし、斉藤は次の日も、その次の日も出勤してこなかった。
最初のうちは「風邪が長引いて」と毎日電話をしてきたが、欠勤が一週間ほどになると、斉藤からの電話はなく、営業所の管理者から直接電話をするようになっていた。
 
それでも斉藤は来なかった。
管理者から漏れ聞いた話によると、電話にも出ないらしい。
美砂を始めとするコールセンターの面々は、暇を見ては斉藤に電話し続けているみたいだが、一向に繋がる様子はなかった。

7月17日、つまり今日、オレも何度か電話してみたが、結果は同じだった。
 
「斉藤君、どうしたのかな」
 
屋上で独り、昼休憩を過ごしているオレのところに美砂が来た。
いつもならオレと並んで斉藤がいて、愚痴の一つも言い合っているというのに、寂しい雰囲気だ。
百田は昼休憩を返上して配達先を走り回っているし、このところオレはいつも独りだった。
 
「何かあったのかな。九電君、何か知らない?」
「知ってたらオレからの電話には出るだろ」
「そうだよね」
「このままだと斉藤はクビか?」
「一応、新しいアルバイトの募集はかけるって上が言ってた」
「…………」
「江坂さんが辞めて、斉藤君が辞めたら……。なんかどんどん寂しくなるね。でも九電君は辞めたりしないよね?」
「辞めなくても転勤はありえるぞ。オレは正社員だからな」
「そっか」
「オレ、今日斉藤の家に行ってみるよ。辞めるなら辞めるではっきりさせよう。今みたいな宙ぶらりんの状態が続くと、大変なのはオレたち配達員だからな」
「じゃあ私も行く」
「オレ独りで行くよ。確信はないけど、心当たりが一つある」
「え? やっぱり何か知ってるの?」
 
斉藤が言っていた。
正社員なんか諦めて、成功がどうとかって。
詳しい話は聞かなかったが、斉藤が出勤してこないことに関係がありそうだ。
尋ねるのは一般的には非常識な時間になりそうだが、どうせあいつは同棲中の彼女がいるだけの独り暮らしだ。
それにもし斉藤が不在でも彼女がいれば何か知っているに違いない。
 
 
 
斉藤の自宅は、オレが借りているのと同じような二階建てのアパートの一室だった。
オレの家からひと駅離れた隣町で、近場といえば近場にある。
思えば仕事帰りにはよく飲みに誘ったものの、自宅まで直接行くのは初めてだ。
何かの拍子に大体の場所とアパートの名前だけ聞いて知っていたから、交番で道を聞いてわざわざ探しに来たのだった。
 
とはいえ問題のアパートまで辿りつけても、肝心の部屋番号がわからない。
一回りしてみたが、一軒家と違って表札はないし、電話をしても出ないだろうし、オレは途方に暮れた。
しかしそこは日頃配達員をやっている者の勘というか、オレはあることを閃いた。
 
オレは集合ポストが設置されている場所に行き、一つ一つ中を覗いて見た。
独り暮らしの多いアパートは、ご丁寧に鍵までかけているところは少ないから、ほとんどのポストの中が無断で覗けるというわけだ。
 
103号室のポストの中に家電量販店のダイレクトメールが入っていた。
宛名を見ると、見間違えようもなく斉藤の名前が書いてある。
なるほど、103号室だ。オレはドアの前まで行き、ドアを叩いた。
 
最初の何回かは無反応だった。
新聞の勧誘だとかの類はおそらくこの時点で不在と考えて諦めるだろう。
しかしそこは日頃配達員をやっている者の勘というか、オレはあることを閃いた。
 
オレはドアの隣のくりぬきのある箇所を見た。
そこで部屋ごとに設置されている電気メーターを見つける。
しばらく観察しているとメーターが回っていることに気がついた。
つまり部屋の中では電気が動いているというわけだ。
 
まぁ空調をつけっぱなしで仕事に行く、というポカはオレもやらかしたことがあるから確実ではないが、普通外出するとき、電気を食いそうなものは一通り消していくものだ。
となれば、電気メーターが働いている今は居留守の可能盛大。
オレはさらにドアを叩きまくる。
 
こうなれば根競べもいいところだが、夜中ともいえる時間帯にドアを叩きまくっているヤツがいれば近所迷惑もいいところだ。
最終的に迷惑を被るのは住んでいる側となるので、この勝負はオレに有利だったようだ。
ドアを叩き始めて五分は経ったであろうとき、ようやく中の者が顔を出した。
 
「え?」
 
一瞬、部屋を間違えたのかと思った。
たとえばダイレクトメールを配達した郵便屋が隣のポストと間違えただとか、そういうイレギュラーな事態が起こってオレの判断を狂わせたのかと思った。
ドアから現れたのは、オレが普段株の話を気持ちよくするために通っているバーのアミだったのだ。
 
「九電さん? なんで? え? どういうこと?」
「っていうか、こっちが聞きたいよ。ここ斉藤の部屋だよね。なんでアミちゃんが」
「斉藤って? ああ、龍君か。ああ、そういえば配達員って。ああ、そうか、そうか」
 
なにやら納得してアミが中へ引っ込んだ。
ドアが閉められ、部屋の中でちょっと聞き苦しい罵詈雑言のようなやり取りがなされている。
わけがわからず経ち呆けているオレの前で、またドアが開いた。
 
「ごめん、ごめん。まさかそんなことになってるとは思わなくて。仕事で来たんだよね?」
「そうだけど。中に誰かいるの?」
「龍君でしょ? いるよ。さっきから居留守使えってずっと」
「アミちゃん、斉藤とどういう関係なの?」
「どういうって……。あはは、まずいところで会っちゃったな」
「もしかして彼女?」
「えっと。まぁ今のところはそんな感じかな、今のところは」
 
アミが答えづらそうに下を向く。
オレはなんと言ってよいやらわからず、嫌な間が空く。
黙って突っ立っていると、アミが靴を履き出した。
 
「龍君、最近ちょっとおかしいの。私、席外すから何とか言ってやってよ。ごめんね、本当」
 
アミは逃げるようにして走っていく。
オレは呆然とその背中を見送った。
 
 
 
アミが斉藤の彼女。
しかも同棲までしている。
内心嫉妬していた斉藤の彼女の存在。
それがよりにもよって、あのアミだった。
 
別にアミは、オレにとって何でもない。
ただの飲み屋の女の子に過ぎない。
ちょっと可愛くて、話をしていてちょっと楽しいだけの相手に過ぎない。
好きだとか付き合いたいとか、そういうのじゃないはずだ。
 
なのに、この言葉にできない感情はなんだ。
胸に穴が開いた気分とはこういうことを言うのか。
 
ドアを閉めて、部屋の中まで数歩程度の距離だというのに、オレはなぜか歩くのが辛かった。
仕事の話をしようと、辞めるなら辞めるではっきりしろと、斉藤にそう言おうと思っていただけなのに。
オレは、オレは。
 
「お疲れ様です、九電さん」
 
斉藤はオレのほうを見もせずにそう言った。
部屋の中はガラスの食器が割れて、テーブルがひっくり返り、衣服が散乱していて、壮絶な散らかり具合だった。
 
斉藤の頬が腫れている。
アミにやられたのかと想像がついた。
どれだけ全力で叩けばあれだけ赤くなるのか。
部屋の様子も手伝って、オレはここでの惨状を察した。
 
「九電さん、女と同棲したことあります? なかったら絶対やめたほうがいいですよ。女は外向きは可愛く見えても、一緒に住んだらとんでもないんです。乱暴ですよ。こんなになるまで俺を叩くんだから。でも褒めてくださいよ。俺、あいつに手、挙げてませんから。顔綺麗だったでしょ? あいつ、一応客商売やってるから、俺は気遣ってんですよ。なのに、あいつはまるで加減なし。酷いですよね」
 
斉藤は部屋のパソコンを見ていた。
それを見て、オレは驚いた。
何も聞かずとも何があったのか想像できた。
パソコンに映っていたのは、オレも見慣れた赤と緑のロウソク足のチャートだったから。
 
知らないソフトの画面だから、ひと目でどうなっているのかはわからない。
しかし斉藤の様子から、オレが普段株でやっている以上の大損を記録していることは間違いなかった。
 
「九電さん。これ、FXって言うんですよ。知ってるでしょ? 結構話題になったから」
「お前まさか、前に言ってた成功がどうしたってのは」
「ええ、これですよ。一日で一億稼いだって人もいるんです。その人は別に経済学者でもなければ、優れた投資家ってわけでもないんです。ただの普通の主婦、サラリーマン、学生。そんな人が一瞬で億万長者になったっていうんですよ。だったら俺にもできるかなって」
「バカ野郎、それはうまくいったほんの一握りのヤツの話だろ。一日で何百万も負けて借金地獄って話もあるぐらいなのに」
「そうですね、本当そうです。今になって思いますよ。俺は甘かったんだなって」
「まさか仕事に来なくなったのもこれが理由か?」
「……はい、俺が配達しているあいだも為替が上下しているんだって思うと、仕事に集中できなくて。だってそうじゃないですか。俺が必死に一日で何千円稼いでも、こっちで何十万も損してたら全く意味なんてない。最悪仕事はクビになってもよかったんですよ。こっちで成功できれば、普段仕事で稼ぐ金なんてたかがしれてますから」
「いつからやってるんだ、FX」
「二ヶ月ぐらい前からです。最初はよかったんですよ。信じられないでしょうけど、最初は勝てたんです。それでこのまんま行けば働かずに済むかなって。でもダメでしたね。この様ですよ。はは、はははは」
 
斉藤がどれくらい負けたのか。
それは聞かずともわかっていた。
 
画面に表示されている金額の桁は、オレが普段動かしている金の何十倍もある。
散らかった部屋のあちこちにも破り捨てられた消費者金融の請求書が散乱している。
この状態でまともな精神状態を保っているのだとしたら、そっちのほうが異常だろう。
斉藤の空笑いは、オレが普段ブログでやっている以上に深刻な様子に見えた。
 
「九電さん、俺ね。あいつと結婚しようと思ってたんですよ」
 
斉藤の発言がオレの心に突き刺さる。
嫌でもアミの可愛らしい笑顔が浮かぶ。
 
「あいつもアルバイトですけど、俺よりが給料いいんですよ。一緒に住むとなれば、どうしても金の話が出るんです。俺、あいつより稼ぎがよくないからいつも遠慮させられるんですよ。男としてこんなの耐えられないっていうか、ことあるごとに悔しくなるんですよ。これから先もずっとこうなんだと思うと、嫌になって。だから俺、一発当ててやろうと」
「…………」
「最初、あいつには黙ってたんです。失敗したらこうなるって俺もわかってましたから。でもついこのあいだ、そこの請求書を見られてバレたんですよ。喧嘩になりましたよ。でもそのときは今みたいに大きく損しているわけじゃないから何とか説明して納得させたんです。投資とギャンブルは違うんだって。まぁあいつも別に投資には詳しくないし、もしかしたら儲かるかもしれないと思ってたのかもしれませんね。うまくいけば何の文句もないでしょうから。でも結局この様ですよ」
「お前、これからどうするつもりだ。仕事辞めるのか」
 
斉藤はオレの質問に一呼吸してから答えた。
 
「はい。すみません。これだけ毎日何十万と動かしている日々が続くと、もう一日何千円なんてアルバイトはする気になれないです」
「だったらどうするんだ。他の仕事を探すのか」
「いえ、もう少しこっちで頑張るつもりです。まだ何とかやれるだけの金はありますから」
「なんだと?」
「九電さん、俺は円を売ってドルを買ってるんですよ。つまり円安が進行すれば俺は儲かるんです。よく言われてますよね。今は円高で日本は景気低迷だって。でもほらここ、見てください。今年の2月と3月のチャートです。売られてきた円が急激に買い戻されたんですよ。流れが変わった証拠です。だから俺はそっちに投資することにしたんです。でもここを見てください。ここ数日、円高に動いていますよね。それで損しているわけなんですけど、俺はこんなの一時的な現象に過ぎないと思っています。だから明日から、いや来週からかもしれませんけど、円安に戻ります。そうなったら大儲けなんですよ。今までの損を取り戻せるんです」
「斉藤、悪いことは言わない。今すぐやめろ。そんで職場に来い。管理者に頭を下げろ」
「ダメですよ、もう」
「ダメじゃない。今は人手が足りなくて管理者までトラックに乗っている始末だ。お前が来れば解決する。来るかもわからないアルバイトを募集する必要もない」
「言ったでしょ。もうそんな気にはなれないんです、俺」
「斉藤!」
「九電さん、すみません。本当、九電さんには迷惑かけたと思ってます。でもどうにもならないんです。投資って分野は、一度始めたら抜け出せないんです。俺が買い戻した後、すぐに売りが入ったらどうしようとかずっと考えてしまうんです。だから二つに一つなんです。俺が億万長者になるか、それとも」
 
斉藤の表情は、とても億万長者になれるかもしれないと目を輝かせている風ではなかった。
自分自身で言うとおり、後には引けない、だからやるしかないというような、何かしらの強迫観念に駆られているだけに見えた。
 
しかしオレはこれ以上なにを言えばいいのかわからない。
オレも株を始めたばかりの頃は、周りの言うことなんて聞かなかった。
いや聞いてはいたし、理解してもいたが、納得して言うとおりにする気にはなれなかった。
 
今の斉藤も、過去のオレと同じ気がする。
周りが口うるさく言ったところで聞く耳持たないのだ。
 
斉藤は力なくオレに帰ってくれるように言った。
オレは斉藤に「辞めるのなら辞めるとはっきりして欲しい」と言いに来たのだから、目的は達成されたと言っていいだろう。
 
しかし腑に落ちない。
確かに斉藤の言うとおり今後は円安方向に進んで、大儲けという可能性もあるにはあるが、仮にそこで儲かったとしてもまた損をするときがやってきて、今みたいな死んだ目でチャートを見続ける日々が戻ってくるような気がした。
 
斉藤の言うことは、かつてオレが考えていたことと同じだ。
オレも株を始めたばかりの頃は無茶な金額を注ぎ込んで大損したものだが、それでも退場まで追い込まれなかったことはオレにとって幸運だったのかもしれない。
オレは、斉藤もそうなるようにと願うぐらいしかできなかった。
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